2013年6月14日金曜日

剛速球、鮮烈な記憶=「怪童」5年で98勝-故尾崎さん

                      

                             東映フライヤーズ時代の尾崎行雄投手=1967年


1960年代、速球派投手として野球ファンに鮮烈な記憶を残した尾崎行雄さんが亡くなった。
 
速球にもいろいろあるが、尾崎さんのそれはまさに「剛球」。横手に近いフォームから放たれる球がうなりを上げ、捕手のミットを激しくたたいた。

身長は170センチ台半ばだが、胸板は分厚く、地肩の強さも並外れていた。投球動作の前に、両腕を何度も前後に揺らす「ロッキングモーション」(のちに禁止される)が印象的。球を受けた種茂雅之捕手が「球の勢いでミットが止まらなかったのは尾崎だけ」と一部雑誌で証言しているほどだ
 
大阪・浪商高(現大体大浪商高)時代、1年夏から3季連続甲子園出場。柴田勲(のち巨人)を擁する神奈川・法政二高との3大会続いた名勝負は今も語り草だ。
 1年夏、2年春に惜敗。2年夏の準決勝で雪辱した。決勝にも勝ち、高校を中退してプロ入りした。
 
デビュー戦も圧巻だった。ミサイル打線と言われた大毎(現ロッテ)相手に、開幕第2戦の延長十回に登場。葛城隆雄、榎本喜八、山内一弘の強打者3人を、いずれも速球だけで打ち取った。
 開幕前「いくら速いといっても、まだ高校生だろ」と豪語していた山内には、敵意をむき出しにして三振に。評判以上の剛球、恐れを知らぬ勝負度胸を見て、マスコミは「怪童」と騒いだ。
 
1年目に20勝して新人王。東映ただ一度のリーグ優勝に貢献した。 
 4年目の27勝を最高に、5年間で98勝。どこまで勝ち星を伸ばすかと思われたが、その後、肩痛や右手指のマメに悩まされ、成績は下降。

プロ生活12年、29歳で引退した。桜のように、太く、短い野球人生だった。(2013/06/14-09:13)


http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2013061400174



                                                                                                                             

筆者考:

亡くなった尾崎行雄氏のご冥福を祈ります!!!・・・。



今日の更新記事は政治を離れてスポーツ界の話題記事!・・・故尾崎氏の1960年代の驚愕する活躍を偲ぶものにしました。

【大阪・浪商高(現大体大浪商高)時代、1年夏から3季連続甲子園出場。柴田勲(のち巨人)を擁する神奈川・法政二高との3大会続いた名勝負】・・・筆者はテレビに釘付けで観戦していたが、今でも昨日の様に、好試合だっただけに、鮮明に覚えています。


 
 
【11月11日】1961年(昭36) みんな踊らされた?怪童・尾崎行雄、1日12時間6球団と交渉
東映入団後の尾崎。ルーキーイヤーにいきなり背番号と同じ19勝をマーク。東映初優勝に貢献した。肩をいため現役12年、通算107勝で引退。今でも「ストレートは一番早かった」とする関係者は多い
東映入団後の尾崎。ルーキーイヤーにいきなり背番号と同じ19勝をマーク。東映初優勝に貢献した。肩をいため現役12年、通算107勝で引退。今でも「ストレートは一番早かった」とする関係者は多い
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By スポニチ
 ドラフト会議が始まる4年前の話である。61年の第43回全国高校野球選手権大会で宿敵・法政二高(神奈川)の柴田勲投手(後に巨人、外野手に転向)に準決勝で投げ勝ち、決勝で桐蔭高(和歌山)を完封した大阪・浪商高の2年生エース、尾崎行雄投手。その“怪童”と呼ばれた尾崎が突如、高校を中退したのは11月6日。翌春のセンバツ出場がかかった秋季近畿大会に優勝した翌日だった。

 学校が嫌になった、家庭の経済的事情、プロで早く腕試ししたかった…理由ははっきりしなかったが、早くから中退→プロ入りの線が濃いとにらんでいたプロ側は早速尾崎側に接触を開始した。中退した6日から日付が7日に変わった午前2時に、まず阪急の球団副代表が“未明の訪問”をするという異常事態からスカウト詣でが激化した。

 連日プロ野球関係者が訪れる大阪府泉大津市の尾崎家。このままでは収拾がつかないとして、尾崎の叔父が窓口となって交渉日程を設定。11日に集中して各球団の話を聞くということになった。

 午前9時45分、阪急(現オリックス)の藤井スカウトが予定より15分早く尾崎家へ。交渉に立ち会う尾崎の父親はまだ散歩に出かけて不在だった。11時予定の東映(現日本ハム)が姿を見せないため、約20分間交渉延長。「ウチは是非とも尾崎君が欲しいんだ。(契約金、年俸など)条件についてはいえないが、以前と変わらない。望みはあると思っている」と藤井スカウト。当時としては破格の5000万円の契約金を提示したという噂が飛び交った

高校中退しプロ野球界に飛び込んだ真の理由は矢張りお金であり、特に父親が其れを欲した!と当時は囁かれていましたが結局は真相は分からず仕舞いでした。

✦怪童・尾崎行雄をプロ野球ファンに対し強烈に植え付けたのは、大毎オリオンズ相手のデビュー戦だった。新装された神宮球場で迎えた、62年4月8日の開幕第2戦。ダブルヘッダーの第1試合だった。3対3の延長10回。マウンドに立った尾崎は「ミサイル打線」の中核の葛城を凡打に打ち取ると、榎本、山内から2者連続三振を奪い、鮮烈なデビューを飾った。しかも、その裏に決勝点が入り、サヨナラ勝ち。記念すべきプロ入り1勝目。
   
【タイトル】・・・

✦最多勝:1回 (1965年)

✦最多奪三振(当時連盟表彰なし):2回 (1964年、1965年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

【表彰】・・・

✦新人王 (1962年)

✦ベストナイン:1回 (1965年)

【記録】

✦オールスターゲーム出場:3回 (1962年、1964年、1965年)

【初記録】

◆初登板・初勝利:1962年4月8日、対毎日大映オリオンズ2回戦(明治神宮野球場)、10回

◆表に3番手で救援登板・完了、1回無失点

◆初奪三振:同上、10回表に榎本喜八から

◆初先発・初完投勝利・初完封勝利:1962年4月22日、対近鉄バファローズ1回戦(日本生命球場)

【節目の記録】

◆100勝:1967年5月3日、対南海ホークス4回戦(大阪球場)、9回2失点(自責点1)

✦1000奪三振:1972年 9月23日、対南海ホークス22回戦(後楽園球場)、5回表にウィリー・スミスから ※史上45人目

【その他の記録】

8連続奪三振(1962年4月29日、対西鉄戦)

【背番号】

19 (1962年 - 1973年)

以上ウイキペディア引用



※17歳でプロ野球界に飛び込んだのは年齢的には無理で、体(筋肉を酷使、手に豆が出来る特異体質)がついていけず、29歳の若さで引退を余儀なくされたが!・・・数々の記録と共に太く短くの野球人生は野球フアン(同世代)の心のなかで長く輝き続けるでしょう。


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