2014年11月14日金曜日

日本は古から東西交流が花盛り!・・・


奈良で出土の皿、ローマ帝国から? 化学組成ほぼ一致


 奈良県橿原(かしはら)市の新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群(国史跡)の126号墳(5世紀後半)で出土したガラス皿の化学組成が、ローマ帝国(前27~395年)領内で見つかったローマ・ガラスとほぼ一致した。東京理科大の阿部善也助教(分析化学)らの蛍光X線分析で分かった。国内の古墳出土品のガラス器がローマ伝来と科学的に裏付けられたのは初めて。
 126号墳から皿とセットで出土した円形切子(きりこ)ガラス括碗(くびれわん=口径約8センチ、高さ約7センチ)の化学組成も、阿部さんらの分析でササン朝ペルシャ(226~651年)の首都、クテシフォンの王宮遺跡「ベー・アルダシール」で見つかったガラス片と同じと判明している。遠方の起源の異なるガラス器が5世紀の日本に伝来したことを示すもので、幅広い東西交流の実例として注目されそうだ。
 皿は口径14・1~14・5センチ。透明な濃紺色の高台のある平皿で、表面に鳥や樹木などに復元できる絵の痕跡がある。東京国立博物館が所蔵し、国の重要文化財に指定されている。
 阿部さんらは、国立科学博物館が保管する皿の素材の粉末を、元素の種類が分かる特殊な蛍光X線分析装置で調査。ローマ帝国やその後の東ローマ帝国期の地中海周辺のガラスに特徴的なソーダ鉱物「ナトロン」と砂(シリカと石灰)の化学組成を確認した。さらに兵庫県佐用町の大型放射光施設「スプリング8」で高エネルギー放射光蛍光X線分析も実施し、2世紀ごろまでのローマ帝国で使われたとされる金属元素のアンチモンを検出した。

 皿は遅くとも2世紀までに作られたとみられるが、5世紀後半とされる126号墳の築造時期と大きく隔たる。阿部さんは「地中海周辺で作られた皿がササン朝ペルシャに運ばれ、絵を施した後に日本に移動したのでは」とみる。

 谷一尚(たにいちたかし)・山陽学園大教授(シルクロード考古学)は「中央アジア経由で日本に伝わった可能性も想定でき、時間がかかった理由もうなずける。5世紀の日本は国際交流が盛んで、いろいろな要素が入り込んだ時代だったとわかる」と話す。

 研究成果は、15日に東京理科大(東京都新宿区)である日本ガラス工芸学会で報告される。ガラス皿と括碗は12月7日まで、東京国立博物館平成館考古展示室で展示されている。(塚本和人)

朝日デジタル2014年11月13日)

http://digital.asa
m/articles/ASGCD3C6RGCDPOMB001.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGCD3C6RGCDPOMB001

                                        

筆者考:


◼︎【奈良で出土の皿、ローマ帝国から? 化学組成ほぼ一致】・・・此れには驚きました!・・・。

ローマ伝来とは、日本に渡って来た経路と更に携わった人々に思いを馳せると!…現在とは異なり、交通網も発達してないない上に、航空機の車も、電車の無い時代に遥かローマの地から遥々と日本国に伝来して、加えて古墳に埋葬されて悠々の時の流れの中でひっそりと保存されていたとは、驚くと同時に筆者は感激せざるを得ません。

➤ ❮皿は遅くとも2世紀までに作られたとみられるが、5世紀後半とされる126号墳の築造時期と大きく隔たる。「地中海周辺で作られた皿が 『ササン朝ペルシャ』に運ばれ、絵を施した後に日本に移動したのでは」とみる❯:

筆者註:❉ 『ササン朝ペルシャ』・・・


サーサーン朝(英: Sassanid、波: ساسانيان - Sāsāniyān 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)


シャーハンシャー
226年 - 241年 アルダシール1世(初代)
241年 - 272年 シャープール1世(第2代)
309年 - 379年 シャープール2世(第10代)
531年 - 579年 ホスロー1世(第22代)
632年 - 651年 ヤズデギルド3世(最後)
変遷
成立 226年
事実上崩壊 642年

滅亡 651年

しばしばササン朝ペルシア、ササン朝ペルシャとも呼ばれる。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合は、サーサーン朝かアケメネス朝を指すことが多い。
サーサーン朝は、アケメネス朝と同じくイラン高原のパールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフル Ērān Šahr と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタン周辺まで及んだ。

特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標とした。ペルシアを支配した勢力の中で、ゾロアスター教を国教とした最後の国である。
(ウイキペデイア引用)

➤ ❮谷一尚(たにいちたかし)・山陽学園大教授(シルクロード考古学)は「中央アジア経由で日本に伝わった可能性も想定でき、時間がかかった理由もうなずける。5世紀の日本は国際交流が盛んで、いろいろな要素が入り込んだ時代だったとわかる」と話す❯:

ローマからササン朝に渡り531年 - 579年 ホスロー1世(第22代)に中アジア・シルクロードを経て日本に伝来したのでしょう。
日本は古来から外来文化を排斥す事はせずに大切にして、いつの間にか日本文化に昇華させて仕舞う独特な資質を持っていた様で、此れが連綿として現在も続いている!と言えるでしょう。

      

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