英雄像が伝える日本とインドネシアの絆 「日本は侵略をしていない」 石井孝明氏
ZakZak(2015.08.22)
防衛省構内で行われたスディルマン将軍の像への献花式=17日 ➡︎
東京・市ケ谷の防衛省構内に、インドネシア独立戦争の英雄で、初代軍司令官であるスディルマン将軍(1916~50)の像が設置されている。同国の独立記念日である17日、日本人有志によって献花式が行われ、ユスロン・イザ・マヘンドラ駐日インドネシア大使らも出席した。ジャーナリストの石井孝明氏が、両国をつなぐ絆についてリポートした。
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「みなさんが、わが国の英雄を称えていただいたことは、本当にうれしい。両国には深い絆があります」。ユスロン大使は、流暢(りゅうちょう)な日本語でこうあいさつした。同大使は、筑波大学に留学し、国際政治経済学の博士号を習得した経歴を持つ。
インドネシアは、350年にわたってオランダの圧政を受けていた。日本軍が1942年に侵攻してオランダ軍を追い出し、日本が敗戦した2日後の45年8月17日、独立を宣言した。スカルノ初代大統領は独立宣言文に「170805」と日付を入れた。「05」とは、戦前の日本で使用していた皇紀2605年の意味だ。スカルノ氏らは、独立を支援してくれた日本を評価していたのだ。
ところが、オランダ軍が再び植民地にしようと戻ってきた。
これに立ち向かったのが、日本軍政下で結成された郷土防衛義勇軍で、スディルマン将軍はリーダーとして4年にも及んだ独立戦争を戦った。そして、何と2000人以上もの元日本将兵が現地に残り、「インドネシアの独立のために」と戦い、約1000人が尊い命を捧げた。残念ながら、こうした事実は、日本ではあまり知られていない。
スディルマン将軍は、オランダが49年12月にインドネシア独立を認めたのを見届け、翌年1月、34歳の若さで結核で亡くなった。同将軍の像は2011年1月、インドネシア国防省から日本に贈呈された。
今回の献花式の実行委員長である国際政治学者の藤井厳喜氏は、日本が大東亜戦争で「民族解放の理念」を掲げたことを強調し、「インドネシアが主導し、民族自決を訴え、欧米列強の植民地支配からの独立を宣言した55年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)と理念がつながる」とあいさつした。
同会議の60周年式典は今年4月にインドネシアで行われ、安倍晋三首相も出席し、「平和と繁栄を目指す諸国の先頭に立ちたい」と演説した。
献花式の呼びかけ人である評論家の加瀬英明氏は「この場所の意味を考えてほしい」と語りかけた。防衛省のある市ケ谷台は、戦時中には参謀本部と陸軍省があり、戦後は「日本がアジアを侵略した」と断罪した東京裁判が行われた。
加瀬氏は「アジア諸国と日本の関係、特にインドネシアとの関係は決して侵略ではなかった。両国の絆を確認し、歴史の正確な事実を示すことは、東京裁判の欺瞞(ぎまん)を示す意味がある」と続けた。
独立への貢献と戦後の経済協力から、インドネシアには親日的な人々が大半だ。「日本は悪い」と決めつけるメディアや有識者の偏見もあり、両国の絆は戦後70年にわたって黙殺されてきた。市ケ谷台に立つスディルマン将軍の像は、日本が戦った戦争の知られざる真実を伝えている。
筆者考:
スディルマン(Sudirman):
生誕 プルバリンガ、オランダ領東インド
死没 マグラン、インドネシア
軍歴 1944–1950
最終階級
中将 (死亡時)
大将 (追贈、1950年)
陸軍元帥 (追贈、1997年)
墓所 クスマヌガラ英雄墓地
スディルマンはインドネシア独立戦争においてインドネシア軍を最高司令官として率いた人物であり、インドネシアでは広く尊敬され続けている人物である。
スディルマンは1916年にオランダ領東インドのプルバリンガで生まれた後、プリヤイ(貴人)であった叔父に養子として引き取られた。
1916年に家族とともにチラチャプへと引っ越すと、スディルマンは勤勉な学生として成長した。彼はイスラム組織ムハマディヤが運営するスカウトプログラムなどの課外活動にも非常に積極的であった。
中等学校在籍時、スディルマンはリーダーシップとグループ組織化の技能を示し、イスラム教への献身的な態度からコミュニティ内で尊敬されるようになった。
教育大学を退学した後の1936年、スディルマンは教師として働き始め、後にムハマディヤが運営する小学校の校長となった。
スディルマンは他にもいくつかのムハマディヤ計画に参加しており、1937年にはムハマディヤ青年隊の隊長となった。1942年に大日本帝国がオランダ領東インドを占拠した後、スディルマンは教師を続けた。1944年、スディルマンは日本主導で結成された郷土防衛義勇軍(PETA)にバニュマス大隊長として参加した。大隊長として、スディルマンは僚友の兵士による反逆を鎮圧したが、後にボゴールに拘留された。
1945年8月17日にインドネシアが独立を宣言すると、スディルマンは拘留場から開放され、スディルマンはバニュマスにいる日本兵投降者を監督する役目を与えられた。
人民安全保障軍の地方支部創設の後これを遂行した。暫定総司令官ウリプ・スモハルジョにより、彼は10月20日に当時自身が所属していた第5管区の部隊長に命じられた。
1945年11月12日、ジョグジャカルタで軍の最高司令官を決定する会議が行われ、スディルマンは選挙によりウリプを破って最高司令官に選出された。
スディルマンが生まれる前に既に軍人であったウリプは参謀長に任命された。承認を待つ間、スディルマンはアンバラワに陣取るイギリス軍とオランダ軍に対する攻撃を指示した。続く戦闘とイギリスの撤退によりスディルマンは民衆から大きく支持され、最終的に彼は12月18日に総司令官就任を承認された。
1948年12月19日、オランダはジョグジャカルタ制圧を試みるカラス作戦を発動した。
政治指導者層がスルタンの宮殿に防御拠点を作る間、小隊の隊長であったスディルマンは南進し7ヶ月に渡るゲリラ戦を開始した。
当初オランダ軍による追撃が行われたが、スディルマンはこれを回避してラウ山付近にあるソボに拠点を構え、これによりスディルマンはジャワにおいて軍事行動命令が可能となった。
オランダ軍が撤退を始めた1949年7月、スディルマンはジョグジャカルタへと呼び戻された。スディルマンはオランダ部隊との戦闘を継続することを望んでいたが、これはスカルノにより禁止された。
スディルマンは結核を再発、これによりスディルマンはマグランで余生を過ごすこととなり、・・・オランダがインドネシア独立を承認したわずか数カ月後に死亡した。
ジョグジャカルタにあるクスマヌガラ英雄墓地(スマキ英雄墓地)に埋葬された。
スディルマンの死はインドネシア中で悲しまれることとなり、半旗が掲げられ、葬儀の車列とその列を見送るために数千人が集まった。
現在でもスディルマンはインドネシアにおいて高く尊敬され続けている。彼が主導したゲリラ戦は軍の士気高揚に利用されており、スディルマンが行軍した100kmの長い道のりはインドネシア軍の士官候補生が卒業前にたどることが必須となっている。
スディルマンは1968年に発行されたルピア紙幣に肖像画が使用されている他、数多くの通り、博物館、モニュメントに彼の名前がつけられている。1964年12月10日、スディルマンはインドネシアの国民的英雄となった。
(出典:ウィキペディア)
➤ ❮❮献花式の呼びかけ人である評論家の加瀬英明氏は「この場所の意味を考えてほしい」と語りかけた。防衛省のある市ケ谷台は、戦時中には参謀本部と陸軍省があり、戦後は「日本がアジアを侵略した」と断罪した東京裁判が行われた❯❯・・・
確かに評論家の加瀬英明氏が語りかけたように!、・・・市ヶ谷に在る防衛省内にインドネシア独立戦争の英雄で、初代軍司令官であるスディルマン将軍の像が設置されているのは東京復讐裁判で有罪判決で絞首刑になった7人の方々への最大の供養となるでしょう!。
連合軍側、特にオランダがインドネシアから日本軍に追い払われて、戦後に奪回も試みたが、日本軍に依って訓練され、加えて戦後もインドネシアに残りインドネシ軍と共に戦った2000人の旧日本軍の兵卒達に奪回作戦は粉砕された。
インドネシアVSオランダとの戦いに大活躍、見事の独立に大きく貢献した『インドネシアの英雄・スディルマン将軍』の像が東京裁判が行われた、戦時中には参謀本部と陸軍省、現在は市ヶ谷・防衛省の敷地に設置されたのは、連合軍側に、特に米国、オランダへの痛烈な皮肉となるでしょう。
同将軍の像は2011年1月、インドネシア国防省から日本に贈呈された!・・・
連合軍側、特にオランダがインドネシアから日本軍に追い払われて、戦後に奪回も試みたが、日本軍に依って訓練され、加えて戦後もインドネシアに残りインドネシ軍と共に戦った2000人の旧日本軍の兵卒達に奪回作戦は粉砕された。
インドネシアVSオランダとの戦いに大活躍、見事の独立に大きく貢献した『インドネシアの英雄・スディルマン将軍』の像が東京裁判が行われた、戦時中には参謀本部と陸軍省、現在は市ヶ谷・防衛省の敷地に設置されたのは、連合軍側に、特に米国、オランダへの痛烈な皮肉となるでしょう。
同将軍の像は2011年1月、インドネシア国防省から日本に贈呈された!・・・
2011年1月14日、防衛省にて行われたPETA銅像(スディルマン将軍像)除幕式の様子。同銅像は、国防省より防衛省に寄贈されたもので、日本側からは、北澤防衛大臣、安住副大臣他、イン ドネシア側からは、プルノモ国防大臣他、スマディ顧問、ルトフィ駐日インドネシア共和国大使、スプタプト・ペタ財団代表、サルンダジャン北スラウェシ州知事らが出席した。プルノモ大臣は、訪日中、防衛大学校 を視察した他、北澤防衛大臣との日尼防衛省会合に出席後、菅総理大臣及び前原外務大臣を表敬訪問した。
寸評:
民主党政権(菅直人内閣)としては、珍しく良い仕事をした事になりました。
筆者菅直人の事、寄贈されても感謝はせずに、倉庫に放置していたのではないか?!と思っていましたが、此れは勘違いであったようです。
◼︎【市ヶ谷に在った参謀本部と陸軍省の建物で東京裁判が行われて7人の方々が有罪の判決をうけた】:
✦ 東条英機 : 1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)、陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。
✦ 東条英機 : 1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)、陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。
辞世の句:
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」
✦ 土肥原賢二 : 明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、陸軍軍人(最終階級は大将)。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たす。昭和20年4月には、陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の一つ、教育総監も務めた。
辞世の句:
✦ 松井石根 : 明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、日本の陸軍軍人。陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけた。
辞世の句:
「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」
✦ 武藤章 : 1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
辞世の句:
「霜の夜を 思い切ったる門出かな」
✦ 板垣征四郎 : 1885年(明治18年)1月21日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は従四位・勲一等瑞宝章・功三級(昭和13年6月3日時点)。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。
関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。
辞世の句:
「ポツダムの宣のまにまにとこしえの 平和のために命捧ぐる」
「とこしえの平和のために身を捨てて 糞土を黄金にかえる嬉しさ」
「大神の御魂の前にひれふして ひたすら深き罪を乞うなり」
「今はただ妙法蓮華と唱えつつ 鷲の峰へといさみたつなり」
「さすらいの身の浮き雲も散りはてて 真如の月を仰ぐうれしさ」
「懐かしき唐国人よ今もなほ 東亜のほかに東亜あるべき」
✦ 広田 弘毅 : 1878年(明治11年)2月14日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。
✦ 木村兵太郎 : 明治21年(1888)年9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、日本の昭和期の陸軍軍人 昭和14年(1939年)3月から第32師団長、昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。同年3月から軍事参議官兼兵器行政本部長。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官
辞世の句!・・・
「現身はとはの平和の人柱 七たび生まれ国に報いむ」
「平和なる国の弥栄祈るかな 嬉しき便り待たん浄土に」
「うつし世はあとひとときのわれながら 生死を越えし法のみ光り」
日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされる。
■陰惨なオランダの復讐!・・・
昭和28年に巣鴨遺書編纂会が、刑死者の遺書を『世紀の遺書』として纏めたが、その中で特出すべきはオランダ管轄裁判の不当性だろう。死刑判決数も236名で、7か国中最も多かった。その原因は、オランダにとっての金の卵・インドネシアを独立に至らしめた日本軍の侵攻だからである。
市ヶ谷…防衛省内に設置された『インドネシアの英雄 ・スディルマン将軍像』は大東亜戦争後に不当(国際法違反⇔
ハーグ陸戦条約/ジュネーブ条約)な裁判に依って死刑になった方々への最大の供養になるでしょう。
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