2016年9月2日金曜日

【訃報】1964年/女子体操⇔東京五輪の名花 チャスラフスカさん死去

信念貫いた五輪の名花 東京を愛したチャスラフスカさん
朝日新聞デジタル(2016年8月31)



プラハで東京五輪の思い出を語るベラ・チャスラフスカさん=2013年12月

 チャスラフスカさんに最後に会ったのは2カ月前のことだった。プラハのカフェで2年半ぶりに再会した彼女は、20キロ以上もやせていた。それでも、温かい笑顔とはきはきとした語り口調は変わらなかった。

「五輪の名花」チャスラフスカさん死去 女子体操で金

がん患うチャスラフスカさん 「雲の上から手を振るわ」

だから、残された命が短いと聞かされても信じられなかった。2020年東京五輪の開催が決まった時には自国のことのように喜んでいた。病を乗り越え、きっと見にくるだろうと思った。だが、彼女が続けたのは「東京五輪は雲の上から日本の皆さんに手を振りますね」という言葉だった。

 演技に魅了された日本人が彼女を愛したように、彼女も日本を愛していた。パソコンのメールアドレスは「sakura1964@……」。うつ病と闘っている間、日本からの取材は受けなかった。後に「薬の副作用でむくんだ顔を日本の皆さんに見せたくなかった」と明かした。

 ログイン前の続き64年東京五輪代表で彼女と親交のあった中村多仁子さん(73)は「ベラにとって東京五輪は特別だった。選手として、女性として、最も輝いていた時期ですから」と思いやった。

 苦難の多い人生だったが、信念は曲げなかった。「プラハの春」の母国がソ連軍の侵攻を受けた直後のメキシコ五輪では、ソ連の選手が金メダルを授与されている間、顔を背けて抗議した。「2千語宣言」への署名で迫害を受け、職を失っても、反体制の立場を覆さなかった。

 最後に訪ねた時も、街を歩けばサインを求められる有名人だった。それでも、「恥ずべきことだから」と派手な生活はしなかった。講演やイベントの出演料を要求することもなく、国から与えられた一軒家を人に貸して、六畳ほどの部屋一つのアパートに住み、家賃収入と年金で暮らしていた。数々のメダルはベッドの下の箱の中だった。


 最後の最後まで、信念を貫いた人生だった。




                                        ベラ・チャスラフスカ:





愛称  :オリンピックの名花

国籍 :  チェコスロバキア→チェコの旗 チェコ

生年月日 :       1942年5月3日
生誕地   :        チェコスロバキア プラハ
没年月日:      2016年8月30日                        ( 満74歳没)

引退   :          1968年





獲得メダル:

オリンピック:                   世界選手権:                    

1964                     個人総合                               1962 プラハ        跳馬
1964                     跳馬             1966 ドルトムント     個人総合
1964      平均台                   1966 ドルトムント     団体総合
1968                    個人総合         1966 ドルトムント   跳馬
1968                    跳馬           1958 モスクワ       団体総合
1968                    段違い平行棒       1962 プラハ        団体総合
1968                    床            1962 プラハ     個人総合     
1960                    団体総合銀                            銀1966 ドルトムント   床                       
1964                    団体総合        銀 1966 ドルトムント   平均台
1968                    団体総合         1962 プラハ     床
1968                   平均台

日本とのつながり!〜、
➤ ❮❮チャスラフスカは東京オリンピックに出場した際に日本のファンが体操競技に詳しいことに驚き、また、滞在中に多くの日本人ファンから扇子、浴衣や日本刀などをプレゼントされたことに感激したことを語っている。それらの贈り物は2013年の時点でも自宅に保管していた。
2010年、日本国の秋の叙勲(外国人叙勲)にて旭日中綬章を受章している。
チャスラフスカは死去の1か月ほど前に朝日新聞のインタビューに応じており、余命宣告を受けていたことを告白していた❯❯・・・
 東京オリンピックで日本のフアンからの贈り物を後生大事にして常に身近に保管していたはジーンと来ます。
癌で余命宣告を受けながらも、落ち込まずに地元のイベント等に積極的に参加してと強靭な精神力の持ち主だった!と言え、頭が下がります。

チャスラフスカさんは1942年生まれ、奇しくもブログ管理人と同じ年!〜、
東京オリンピック時は21歳と青春が花盛りでした。
ブログ管理人は当時は商社の技術派遣員としてNY市に住んでいたので、・・・東京オリンピックは異国の地で、日本への思いを馳せながらテレビで観戦していました!。
体操競技には日本勢の活躍が目立ち、勢い観ては、チャフラスカさんの華麗な演技には魅せられたものでした。

➤ ❮❮演技に魅了された日本人が彼女を愛したように、彼女も日本を愛していた。パソコンのメールアドレスは「sakura1964@……」。うつ病と闘っている間、日本からの取材は受けなかった。後に ❝薬の副作用でむくんだ顔を日本の皆さんに見せたくなかった!❞ と明かした❯❯・・・
 まるで、今では純粋な日本女性が!〜、
『逝かれ・ブサヨ!』が戦後教育界を牛耳り、狂った教師どもが『ジエンダー・フリー』の訳の理解困難な信条を振り翳して学徒を洗脳した結果は!〜、
日本の女性美の典型と言われる『大和撫子』がいつの間にかひっそり、歴史の彼方へと消え去ってしまいました。
チャフラスカさんが大和撫子を体現して呉れました。

パソコンのメール・アドレスが!〜、
「sakura1964@……」
泣かせてくれます!・・・
チャフラスカさんのご冥福を祈らせて頂きます!・・・。

Youtubeを散策して、チャフラスカ三の華麗な演技の動画を拾いましたので、以下に貼り付けます。
チャフラスカさんのご冥福を祈りながら鑑賞して頂ければ幸いです。









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