2017年5月31日水曜日

歴史上に燦然たる輝くを放つ偉大な先人たちが残した名言、格言!・・・

長い人生、生きていく中で人はそれぞれ!~、
悩み、挫折、落胆、自信喪失、信頼していた人からの裏切られる!・・・
大きな傷を負うは常である!・・・

今日は!~、
ブログ管理人も自分のこれまでの生き方を省みて!・・・
自戒を込めて、日本を含めて世界の偉大な先人たちが残した名言、格言に触れて、今後の人生上に歩みに役に立てたい!と思いブログ記事に取り上げました!。

◼︎【文学家】

ウィリアム・シェイクスピア(1564年~1616年):

英国の劇作家、詩人。英国ルネサンス演劇を代表する人物。
シェイクスピアの父は皮手袋商人で市会議員、母はジェントルマンの娘であり、裕福な家庭環境に育つ。18歳で26歳の女性と結婚。その後、ロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになる。俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになり、名声を得たシェイクスピアは多くの戯曲を執筆。その卓越した人間の心理描写により、最も優れた英文学の作家と言われる

✦ 険しい丘に登るためには、最初にゆっくり歩くことが必要である!・・・

✦ 成し遂げんとした志をただ一回の敗北によって捨ててはいけない!・・・

 慢心は人間の最大の敵だ!・・・

 輝くもの、必ずしも金ならず!・・・

 悪口を言われて我が身を正すことの出来る人間は幸せと言うべきだ!・・・

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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
            (1749年~1832年):


ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家。 1749年、ドイツ中部の裕福な家庭に生まれる。
父は教育に熱心で、3歳のときから読み書きや算数などの初等教育を受ける。ゲーテは特に語学に長け、少年時代に6ヶ国語を習得。読書も好み、詩作も評判となる。16歳で故郷を離れ、大学に入学。しかし病気のため退学。その後、フランス領にある大学に入学し、作家、詩人としての下地をつくる。



 自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる!・・・

✦ 焦ることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。

  焦りは過ちを増し、後悔は新しい後悔をつくる!・・・

 自分一人で石を持ち上げる気がなかったら、二人でも持ち上がらない!・・・

 本当に不幸なのは、できることを未完のまま放り出し、
  理解もしていない事をやり始めてしまう人々だ。彼らがやがて
  嘆くのも無理はない!・・・

 本当の自由な心とは「認める」ということである!・・・

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武者小路実篤(1885年~1976年):

日本の小説家・詩人・劇作家・画家。
公卿の家系である武者小路家に生まれる。2歳の時に父が死去。子供時代は作文が苦手であった。
1910年に友人の志賀直哉らと文学雑誌『白樺』を創刊。小説「おめでたき人」「友情」「愛と死」「真理先生」などをの代表作に加え、多くの人生論も残している。


✦ この道より我を生かす道はなし、この道を行く!・・・

 君は君我は我也されど仲よき!・・・

 色と言うものはお互いに助けあって美しくなるものだよ。
  人間と同じことだよ。どっちの色を殺しても駄目だよ。
   どの色も生かさなければ!・・・  

 さあ、俺も立ち上がるかな… まあ、もう少し坐つてゐよう!・・・

✦ 才能で負けるのはまだ言い訳が立つ、しかし誠実さや、勉強、熱心、
  精神力で負けるのは人間として恥のように思う。
  他では負けても、せめて誠実さと、精神力では負けたくないと思う!・・・

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相田みつを(1924年~1991年):


日本の詩人、書家
 栃木県足利市に生まれ、戦中戦後に青春時代を過ごす。
難しい言葉を語らない独自のスタイルを確立し、詩集『にんげんだもの』など、人間としてのありよう、生き方、いのちの尊さを考えさせられる作品を数多く残している。
 自分の弱さも包み隠さずにさらけ出すその言葉は、ときにやさしく、そして力強く心に響きます。









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◼︎【武将・軍人】

武田信玄(1521年~1573年)

戦国時代の武将、甲斐の守護大名、戦国大名。戦国時代、信玄率いる武田軍は、天下一の軍団として怖れられる。
1521年、甲斐国守護・武田信虎の嫡男として生まれる。1541年、父・信虎の駿河追放により、信玄は家督を相続。1553年、上杉謙信と北信濃の支配権を巡る川中島の戦いが始まる(計5回)。

 武将が陥りやすい三大失観!~、
      一、分別あるものを悪人と見ること
      一、遠慮あるものを臆病と見ること
      一、軽躁なるものを勇剛と見ること

✦ 負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。

それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり!・・・

✦ 渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である!・・・

 信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ!・・・

 風林火山 –
         疾(と)きこと風の如く、
         徐(しず)かなること林の如く、
         侵掠(しんりゃく)すること火の如く、
         動かざること山の如し。

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織田信長(1534年~1582年):

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。
1534年、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけ(常識にはずれた人物)と呼ばれていた。
織田信長は、1573年に足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼし、戦国時代の終結に最大の影響を与えた。しかし、家臣・明智光秀の裏切りによる本能寺の変で信長の時代は終わりを告げ、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康の江戸幕府へと続いていく。

✦ 理想を持ち、信念に生きよ。
  理想や信念を見失った者は、戦う前から負けているといえよう。
  そのような者は廃人と同じだ!・・・

✦ 生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠る、自惚れる。
  しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと
  日々努力する。
  心構えがまるで違う。これが大事だ!・・・

 戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。
  比例するかそうでないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ!・・・

 人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん!・・・


✦ 攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな!・・・

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豊臣秀吉(1537年~1598年):

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、武家関白、太閤。織田信長に仕官して頭角を現し、信長の死後に天下統一を果たした。
1537年、尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)に足軽の子として生まれる。
1598年、秀吉は後継者の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没。61年の生涯を閉じた。

✦ 戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである!・・・

✦ 戦は六、七分の勝ちを十分とする!・・・

✦ 敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ!・・・

✦ 負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。
 逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし!・・・

 信長公は勇将であるが良将ではない。剛を持って柔に勝つことを知ってはおられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。
ひとたび敵対した者に対しては、怒りがいつまでも解けず、
ことごとく根を断ち葉を枯らそうとされた。
だから降伏する者をも誅殺した。
これは人物器量が狭いためである。
人には敬遠され、衆から愛されることはない!・・・

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徳川家康(1543年~1616年):

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、江戸幕府の初代征夷大将軍。織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、全国を支配する体制を確立し、応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代に終止符を打つ。江戸幕府は、明治維新まで264年間続く。
1543年、戦国時代中期に三河国の岡崎城(現:愛知県岡崎市康生町)で生まれる。父の岡崎城主・松平広忠は、守護大名・今川氏に忠誠を示すため、家康(幼名は竹千代)を人質として差し出すが、家臣の裏切りにより今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られて人質となる。織田氏の元で数年を過ごした後、あらためて今川氏へ送られ数年間、忍従の日々を過ごす。

✦ 人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず!・・・

 勝つことばかり知りて、負くること知らざれば、害その身に至る!・・・

✦ 及ばざるは過ぎたるより勝れり!・・・

✦ 人生に大切なことは、五文字で言えば「上を見るな」。
  七文字で言えば「身のほどを知れ」!・・・

 われ志を得ざるとき忍耐この二字を守れり。
  われ志を得んとするとき大胆不敵この四字を守れり。
  われ志を得てのち油断大敵この四字を守れり!・・・

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ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年):

フランスの軍人、政治家、フランス第一帝政の皇帝。英国を除くヨーロッパの大半を勢力下に置くが、最終的に敗北し失脚した。
1769年、コルシカ島に生まれる。1779年にフランス本土の陸軍幼年学校、1784年にパリの陸軍士官学校に入学。士官学校では、砲兵科を専攻。通常の在籍期間が4年程度のところを、わずか11か月で卒業。1785年に砲兵士官として任官。

1789年、フランス革命が勃発。これにより絶対王政が倒れ、フランスは立憲王政から共和制へと展開。1794年のテルミドールのクーデターによりこの市民革命は終わりを告げる。

✦ お前がいつの日か出会う禍は、
          お前がおろそかにしたある時間の報いだ!・・・

✦ じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たなら、
             考えるのをやめて、進め!・・・

 会議を重ねすぎると、いつの時代にも起こったことが起こる。
  すなわち、ついには最悪の策が採られるということである!・・・

 勝利は、わが迅速果敢な行動にあり!・・・

✦ 有能の士は、どんな足枷をはめられていようとも飛躍する!・・・


如何でしたか!?~、
偉大な先人たちが後世の人々の残して呉れた名言、格言は!・・・
心の中に深々と染み渡るようですね!。
拙ブログの来訪者のみなさんは、どの格言が気に入ったでしょうか!?。

ブログ管理人が気に入ったのは!~、
 ❝❝有能の士は、どんな足枷をはめられていようとも飛躍する!❞❞ です!。


有能な国はどんな足枷(憲法9条)を嵌められていようが、有事の際は大きく飛躍して国を、国民を守る』と置き換えて、・・・日本国が直面している諸問題を跳ね除ける事を願っているからです。


2017年5月30日火曜日

❝心頭滅却すれば火もまた涼し❞!・・・

【戦国僧侶の存在感】信長怒りの焼き殺しから生まれた「心頭滅却すれば火もまた涼し」 
ZakZak(2017.05.29) 

 筆者が小学校4、5年生、昭和30年代のはじめは、太平洋戦争が終わって、まだ10年ちょっとのころだ。「もはや戦後ではない」という経済白書(昭和31=1956=年)は出されたが、ほとんどの家庭で、冷暖房装置は普及していなかった。夏の冷房の主役はわが家でも、うちわだった。

 その日も朝から相当に蒸し暑い日だった。こらえ性のない私は、朝早くから、やれ暑いの、やってられないのと、不平不満を間断なく訴えていた。あまりのしつこさに母がたまりかねて言った。

 「『心頭を滅却すれば、火も自(おの)ずから涼し』ですよ!」

 言われた本人はびっくりした。何を言っているのだか、さっぱり分からない。「心頭」も「滅却」も「自ずから」も、全然分からない。この箴言(しんげん)は小学生向きではない。ただ、「火もまた涼し」のフレーズだけ、「そりゃ無理だ」と思ったことを覚えている。

以下略!〜、

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記事の執筆者である、松平定知氏と同じようにブログ管理人が、❝心頭滅却すれば火も亦た涼し!❞!〜、
 此の言葉と最初に出会ったのは、小学校4年生の時!・・
 叔父、叔父の友人に連れられて4月初旬、故郷の宇都宮市郊外に流れる鬼怒川に魚釣り(❝しゃけっこ❞=鮭の稚魚が川下り海に向かう)に行った時でした。
雪解で川水は、氷のように冷たく、川の中に入るのを躊躇っていたブログ管理人に、・・・叔父が何を躊躇っているのだ!、その昔、武田信玄の懐刀だった恵林寺の快川紹喜和尚が、信長の攻撃で火炙りにされた時、❝心頭滅却すれば火も亦た涼し!❞ 言った!。『川水の冷たさなどは業火に比べると何のことはない、さっさと川に入れ!』と、叱咤激励された事が懐かしく思いだされました。



恵林寺三門。左右の柱に「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世が記されている


快川紹喜(かいせん・じょうき)和尚:



文亀2年(1502年) - 天正10年4月3日(1582年4月25日))、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧。
俗姓は土岐氏で、美濃国の出身といわれるが、別説もある。永正10年(1513年)、12歳で出家。
妙心寺の仁岫宗寿の法を継ぎ、… 美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職 ⇒ 美濃国主の斎藤義龍との間で「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教上の混乱が起こり、一旦美濃を離れるが、義龍の死去に伴い帰国 ⇒ 

永禄7年(1564年)には甲斐国の武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺 ⇒ 武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めた ⇒ 甲斐では信玄に機山の号を授けている。


快川和尚は、もともと美濃(岐阜県の一部)出身であり、・・・当時の美濃領主は、・・・※ 『戦国の三梟雄(きょうゆう=残忍で強い人)の1人で、『蝮(マムシ)の道三』と言われた斉藤道三の息子、義龍だった。義龍と快川和尚は「そり」が合わず、結局、快川和尚が美濃を出ることになった。

ブログ管理人註:❝戦国の三梟雄
乱世の梟雄: 松永久秀/美濃の蝮: 斎藤道三/謀聖: 宇喜多直家

 快川和尚が美濃を出る情報をいち早く得て、和尚に声をかけたのが信玄だった。
 信玄は常日ごろ、快川和尚の「評判」を耳にしており、・・・『わが甲斐に来てはくれまいか』、快諾した和尚は、以後、禅だけではなく、軍事、政治など、信玄の周りの諸事に亘って、相談相手になり、信玄を支えた。

 元亀4(1573)年に、その信玄が死ぬ。さらに天正10(1582)年に後継の勝頼が亡き後武田家は滅び。武田が滅びたあとも、快川和尚を密かに敬慕する武将がいた。武田滅亡とほぼ同時に、信長は快川和尚を自国に誘うのだが、信玄への恩義を深く感じていた和尚は、その招請を断った。
 招聘を断られた信長は怒り!・・・、 快川和尚の住む恵林寺に火をかけ、焼き殺しにかかった。そして、その紅蓮の炎の中で快川和尚は焼死した。

 心静かに、覚悟を決めたら、座禅は!〜、
どんな状況でもできる!・・・
瞑想(めいそう)は快適な場所ではなくて、没頭すれば『無の境地』に辿り着く!・・・
これが、業火の中で『心頭滅却』の誕生となった!・・・

禅の思考は日本は知らずに身に着けている者が驚くほどに多い!・・・
 此の日本人の潜在的な思考方法がいざ!となった時に、驚くほどの行動に昇華して世界を瞠目させた事は、歴史に刻まれている!と言えるでしょう。
残念ながら、現今の日本人、特に政治家が潜在的な禅の精神から最も乖離して居るのでは!?と、思えるのはブログ管理人の気の所為か?、・・・



2017年5月29日月曜日

小西ひろゆき(参議院議員)が狂乱!:偏執狂的な妄言が止まらず!・・・

小西ひろゆき(参議院議員)の毒舌が!~、
偏執狂的な妄言が狂気度をますますと増幅されてきた!・・・
最早、脳細胞は日本、安倍総理、日本国民への憎悪を抑える事が出来ず!・・・

キムチ舌が勝手に動き驚愕のツイット《安倍総理への罵詈雑言❢》がネット空間で凄まじい勢いで駆け巡っている!・・・

                                              


<民進党>「OB・OG会」発足、初会合に30人出席 大先輩の見識は重要。しかし、安倍総理という世界の政治史上にも異常な独裁者を打倒するためには、民進党内の信念と実行力のある中堅、若手を徹底的に登用し、実力を発揮させる以外にない。

                                              

<国連事務総長>共謀罪への懸念「総意ではない」 国連の政治利用の暴挙。下劣な情報操作。「報告者は人権侵害を懸念。日本政府の回答は中身ゼロと重ねて批判された」と事務総長に報告すれば「総理、あなた馬鹿なのですか?」と答えただろう。
                                              
今や、精神異常者とも言える小西ひろゆきは!~、
 例え、所属する売国政党の民主党が
            敵対する政権与党!・・・
国体運営に全力を尽くしている自民党安倍総裁!・・
日本国の首相の対して一欠片の尊敬の念がなく!・・・
狂気の一語に尽きる、罵詈雑言を投げつけている!・・・


以前にも以下のキムチ舌が滑り!〜、 
 ❝❝世迷い言ような!❞❞ ツイッターへ発信!・・・

日本の政界には!〜、
特に、民進党、共産党には日本、日本人憎し!で凝り固まっている精神異常者がわんさ!とボウフラの様に生息している観がある!・・・

此等のヒトモドキの連中は!〜、
言いたい放題で『日本!、安倍総理!、日本人』を…傷つける事が今や唯一無二の生き甲斐となっている!・・・

特大のキムチ舌を持つ、民進党小西ひろゆき(参議院議員)が、安倍総理を世界政治史上で異常な独裁者!と決めつけているが、根拠は全くなし。
 おそらく、小西の朝鮮脳が火病を起こして、感情を押さ得きれずに言わしめたのでしょう!。

こんな、精神異常者を処断できずにいる日本も、小西と同様に異常な国と言っても決して過言ではないでしょう!。
悲しい限りです!!!・・・。