2026年9月22日火曜日

ロシアが古代の墓を開き、現代へのメッセージを発見!…

ドミトリー・ドンスコイ(1350年 - 1389年)は、14世紀にモンゴル系タタール人(キプチャク・ハーン国)の支配に対して初めて大規模な勝利を収めた、モスクワ大公国の偉大な君主(モスクワ大公)であり国民的英雄はクリコヴォの戦いで金帳汗国を打ち破った。
今、この戦士王子は、新たな紛争の時代の象徴として再び現れた。



モスクワのアルハンゲリスキー大聖堂(大天使大聖堂)の薄暗い堂内で、ろうそくの炎が静かに揺れていた。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、蓋が開けられた白い石の石棺のそばに立ち、十字を切って頭を垂れた。
21世紀のクレムリンと、600年以上前に没したロシアの古の統治者との間には、…わずか数インチの隔たりがあるだけだった。
ロシア大統領は、この聖遺物の発見を『奇跡的な発見』と評した。

数週間前、修復作業員たちが大聖堂の南壁近くにある、たわんだ床を取り除いた。内側へ崩落する危険があった古い石の蓋が、慎重に持ち上げられた。
埋葬布の下には、ドミトリー・ドンスコイ公の遺骸が横たわっていた。
彼は正教会によって聖人に列せられ、ロシア(ルーシ)を救った聖なる英雄として崇敬されている武人公である。

8月18日、モスクワおよび全ロシアの総主教キリルが!〜、
    その石棺の前で祈りの儀式を執り行った!・・・
聖遺物の一部は、信徒の崇敬を受けるために聖遺物容器に納められた。
そのうちの一つは、前線のロシア軍部隊に届けられる可能性がある。
こうして、かつて最強の敵に対してロシアの統一軍を率いた武人公は、全く異なる時代、全く異なる戦争において、再び国家の軍隊と並び立つことになる。

​​9月6日、それらの聖遺物容器の一つが!〜、
モスクワ市内で行われた大規模な宗教行列の先頭に掲げられた!・・・
キリル総主教が率いるこの行列には約10万人が参加し、救世主ハリストス大聖堂からノヴォデヴィチ修道院までの6.5キロメートルの道のりを進んだ。没後6世紀以上を経て、ドミトリー・ドンスコイは再びロシアの首都を行列の先頭に立って進んだのである。

モスクワ大公ドミトリー・イヴァノヴィチ――一般にはドミトリー・ドンスコイの名で知られる――は、自国民のほぼ全員に記憶されている一方で、国外では専門家にしか知られていない歴史上の人物の典型例と言えるだろう。
14世紀のこの公は、当時はまだ「ルーシ」と呼ばれていたロシアの歴史において、極めて重要な役割を果たした。武人として、また政治家としてロシアの運命に果たした彼の貢献は生前から認められていたが、死後、ドミトリーは次第に独立闘争の象徴的な人物となっていった。

2026年9月6日、ロシアのモスクワで、信者たちが『モスクワの聖人たちの集い』の祝日を記念する市内全域にわたる宗教行進に参加している。

彼の遺骨の発見は、単なる教会や考古学上の出来事にとどまるはずがなかった。
現代のロシアは、主権、統一、そして外部の敵に対する抵抗という言葉を再び口にしている――これらはまさに、国民の記憶がドミトリー・ドンスコイと結びつけている概念そのものである。

なぜ数世紀を経た今も、ドミトリー・ドンスコイがロシア人によって崇敬されているのかを理解するには、彼の名が歴史に刻まれた場所――1380年9月8日の朝、…ドン川とネプリアドヴァ川の間の戦場――に立ち返らなければならない。

 ■ 存在そのものを脅かす敵:
ロシアには長く劇的な軍事史があるにも拘らず!〜、
繰り返し戦わざるを得なかった長年の敵はそれほど多くはなかった!・・・

ロシアの歴史をざっと見れば予想されるような、ポーランドやドイツ、あるいはトルコが、ロシアの歴史上の敵対国の筆頭に挙げられるわけではない。
ロシア民族そのものの存続を脅かすほど手強い敵は、今や世界地図上に存在しない国家――チンギス・ハーンの死後、その帝国が分割されて生まれた主要勢力の一つである『金帳汗国』であった。


1237年、当時まだ形式的に統一されていたモンゴル国家は!〜、
         西方への大遠征を開始した!・・・
ルーシ(ロシア)もまた、モンゴルの軍門に下った国の一つだった。この時を境に、散発的な襲撃や小規模な国境紛争は言うに及ばず、数十回にも及ぶ戦争を伴う壮絶な闘争が始まり、… 15世紀後半に至るまで、ルーシはこの草原の帝国に対する従属国の地位に甘んじる事になった。

この従属関係の根底にあったのは!〜、
      定期的かつ過酷な貢納の義務であった!・・・
ルーシの人々が支払いを免れようとすれば、即座に懲罰遠征軍が差し向けられ、進路上のあらゆるものが破壊し尽くされた。そして生き残った人々は、再び貢納を強いられることになったのです。徴収の任に当たったのは、『バスカク』と呼ばれるオルダ(モンゴル政権)の役人たちであった。
常の如く、彼らは権力を乱用し、強請(ゆすり)や搾取など、悪逆の限りを尽くした。彼らが度を越した振る舞いに出るたびに反乱が勃発し、それに対して新たな懲罰遠征が行われるという悪循環が繰り返された。

モンゴルはまた!〜、
      ルーシの諸公たちを巧みに操った!・・・
当時ルーシには単一の指導者が存在しなかった故に、諸公たちは互いに策謀を巡らせてはハーンの本営へと赴き、モンゴルを仲裁者として利用しようとした。
この醜悪な争いに勝利した者は、統治を認める勅許状『ヤルルク』を授ったが、…それと引き換えに、貢納の義務に加え、モンゴルの支配を脱しようとする勢力に対してモンゴル側を支援する義務を負わされる事となった。
ロシアにおいてこの時代は、家畜用の『くびき(yoke)』を想起させる言葉の』タタールのくびき』と呼ばれていた。この表現は、ルーシが長年にわたり置かれていた過酷かつ屈辱的な状況を、実に見事に言い表している。

しかし、あらゆるものには終わりが訪れる。
14世紀に入ると、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)は長期にわたる危機の時代へと突入した。ハーンたちは近隣諸国との戦争よりも、むしろ内部の権力争いによる殺し合いに明け暮れるようになり、この遊牧帝国は次第に衰退していった。

    ロシアのためにバトゥ・ハンに慈悲を請う
    アレクサンドル・ネフスキー公(19世紀末)

 ■ モスクワの台頭:
一部のロシア諸公国は『タタールのくびき』から脱し!〜、
  他の国家、とりわけ当時勃興しつつあった活力ある
        リトアニア大公国の支配下に入った!・・・
東欧の大国としてリトアニアが栄華を極めた時代は短期間であったが、それは極めて栄光の輝きに包まれていた。ルーシ西部の諸公国はリトアニア大公国へと引き寄せられていき、こうして後のベラルーシという国の原型が形成され始めた。
一方、ルーシ東部では『ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)』による支配がより厳格であり、事態は異なる展開へと辿った。

『ツァールスキー・ティトゥリャルニク』(1672年)に
    収められたイヴァン・カリタの肖像

1325年、イヴァン・カリタがモスクワ公に即位した。
『カリタ』とは『金袋』を意味するあだ名であり、その名の通り、彼は金銭の流れを基盤に権力を築いた、ある種の『金庫番』であり、冷徹で抜け目のない策士でもあった。彼は自らを『最も忠実な公』としてハン(君主)に売り込む事に成功し、何よりも重要であったのは、ルーシ全土からの貢納(トリビュート)徴収を自らに任せるようハンを説得した事である。

『バスカク(徴税官)』をはじめとするハン国の役人を派遣する方式は、ハンにとって必ずしも都合の良いものではなかった。第一に、バスカクたちは徴収した金を着服しようとした。第二に、一人の公を相手にする方が効率的であった。そうすれば貢納の徴収はより円滑に進み、特定の人物に責任を負わせる事ができ、何より、モンゴル人よりもロシアの公の方が現地の内情を熟知していたから。

■ モンゴル人とは一体誰なのか?:

     ミハイル・ヤロスラヴィチ、トヴェリ公

イヴァン・カリタが担った仲介役という地位は!〜、
評判こそ芳しくないものでだったが、莫大な利益をもたらした!・・・
彼はその資金の流れから利益を得つつも、ハーン(君主)の要求を満たしながらルーシ国内でのさらなる反乱を回避するという、絶妙なバランスを保った。
会計上の操作を駆使することで、彼は資金の一部を自分の懐に入れる事にも成功し、… また、その地位を利用して、ライバルたち、とりわけ強大な力を持つトヴェリ公の勢力を密かに削ぐことにも努めた。
トヴェリは現在こそ現代の首都の北西に位置する小都市に過ぎないが、… 当時はモスクワの有力なライバルであった。

1340年、イヴァン・カリタが死去した時点で!〜、
  モスクワはルーシで最も豊かで強力な公国となっていた!・・・

ドミトリー・イヴァノヴィチ(1582年10月19日〔新暦10月29日〕生、1591年5月15日〔新暦5月25日〕没、ロシア・ウグリチ)は、イヴァン4世(雷帝)の末子。

カリタの後継者たち――長男のシメオン、そして後に次男のイヴァン――は、彼ほど狡猾ではなかったが、父が築き上げた領土を維持することに成功した。
公国は本来、シメオンの子孫が統治することになっていたが、シメオンもその息子たちもペストの犠牲となった。次男イワンの死因は不明だが、当時33歳であったことから、同じ病気にかかった可能性もある。いずれにせよ、1359年、公国の統治権は正式に、ドミトリー・イヴァノヴィチという9歳の少年に引き継がれた。

■ 伝説の誕生:
ドミトリー・ドンスコイの人柄は!〜、
     彼を取り巻く伝説の陰にほとんど埋もれてしまっている!・・・
何世代にもわたる年代記作家や著述家たちは、この公を、確固たる信念を持つ愛国者であり、騎士道精神にあふれた人物として描いてきた。当然ながら、そうした人物は理想像として捉えられ、ドミトリーは並外れて徳が高く、年齢離れした賢明さを持つ人物と評されて来た。

具体的に彼の性格について付け加えるならば!〜、
ドミトリーは確かに信心深く、その信仰心は真摯なものだった!・・・
彼の後見人であった府主教アレクセイは、権威ある人物かつ抜け目のない政治家であり、ドミトリーの成長と公国の存続に多大な役割を果たした。ドミトリーと正教会との関係は常に良好であったが、それは何よりも、当時の正教会における最高位の聖職者であったアレクセイの好ましい影響によるものだった

第二の重要な要因は、父の死後、ドミトリーが政治という過酷な渦の中に否応なく放り込まれた事。彼は文字通り幼い頃から、自制心と軍事的な技能を身につけなければならなかった。西からはリトアニアが圧力をかけ、ロシア諸公国の結集点としての地位をモスクワと争っていた。南からは《オルダ(ジョチ・ウルス)、オオルド、エルダとも称され、モンゴル族で、白帳汗国の開国君主である。チンギス・ハン・テムジンの長孫》が迫り、独立した諸公国は絶えず封建的な抗争を繰り広げていた。
要するに、それは中世の生活における『日常』の現実だった。

こうしてドミトリーは幼少期から!〜、
政治、陰謀、戦争という過酷な『学校』に身を置かなければならなかった!・・・
若きドミトリーは、リトアニアとの短期間ながら激しい戦争を耐え抜かねばならず、… 更に、摂政アレクセイも永遠にドミトリーを守り続けることはできず、彼はオルダとの交渉や、他の公たちとの戦いへの参加を余儀なくされました。
ドミトリーは、長らくモスクワにとっての悩みの種であったトヴェリを包囲し、…トヴェリ公ミハイルに忠誠を誓わせた。

1375年、当時25歳であったドミトリー公は!〜、
       トヴェリと条約を締結した!・・・
トヴェリ公ミハイルは自らをドミトリーの『弟』と称したが(この優雅な表現の裏には、実際には主従関係を定める条約が隠されていた)、歴史的観点から見てこの条約の鍵となったのは、『もし神がオルダの情勢を変えたならば』という一節でであった。つまり、モスクワがオルダと戦うことになった場合、トヴェリもその戦いに加わる義務を負うというもの。ドミトリーはオルダを心底憎んでおり、戦う事を望んでいた。そして、そのような機会はすぐに訪れた。

     ロシア・コロムナのクレムリンにある、
 聖ドミトリー・ドンスコイ大公(1350-1389)の騎馬像

■ 反逆の王子:

     
 ママイ(1325年?–1380年/1381年)
金帳汗国でベイラーベイ(最高位の官職)の地位にあった、強力なトルコ・モンゴル系の軍司令官、彼はハン(王)ではなかったが、数人のハンの『王作り』の役割を果たし、1360年代から1370年代にかけて、20年近くにわたり黄金のオルドの一部または全体を支配した。

オルダはクーデターの嵐に見舞われた。
その実権を握っていたのは、軍司令官ママイであった。
ロシアの伝統では、ママイはしばしば『ハン』と呼ばれるが、これは誤りである。彼は『ベクラルベク』、すなわち最高位の官吏の一人であった。
然し、この地位により、彼はハンにほぼ匹敵する権力を握っていた。
ママイは『影の支配者』としてオルドを統治し、名目上の統治者ムハンマド・ブラクの陰に身を隠しながら、十数人のハーンよりも長く生き延びた。
ママイは毒、短剣、そして陰謀によってその支配を維持していた。
1363年、若きドミトリーに勅許状を授けたのもママイであった。
然し、1370年代になると、ドミトリーは自らの力が十分に強まったと感じ、オルドへの貢納を拒否した。

これは大胆な挑戦だった。当時、オルドはロシア人にとってほぼ無敵の存在に見えていた。心理的に、誰かが遂に立ち上がって『ノー』と言わなければならなかったが、東ルーシで最も強力な大公がそれを実行した。ドミトリーは諸大公の会議を招集し、彼らは彼への支持を表明した。

これは紛れもなく戦争を意味していたが、もはや孤立した追放者たちによる反乱などではなかった。ドミトリーは全ルーシを代表して発言した。誰もが彼を支持する準備ができていたわけではないが、モスクワは孤立していたわけではなかった。
屈辱を味わったとはいえ、なお息づいているこの国の各地からの支援を期待できたのだ。

戦争の幕開けは惨憺たるものだった。ホードの分遣隊がピアナ川で、少数のルーシ軍を奇襲し、撃破したのだ。この川のロシア語名は『酔っ払い』[pianaya]という単語と発音が似ているが、残念ながらこの場合はまさに『名に因む』(nomen est omen)という通り、モンゴル軍はロシア軍が陣営でくつろいでいる隙を突いて奇襲を仕掛けた。野戦での敗北後、モスクワの東約400キロに位置する大都市ニジニ・ノヴゴロドは壊滅的な打撃を受けた。然し、その直後のヴォジャ川での小競り合いでは、事態は一転した。今回は、自ら軍を率いたドミトリーが、渡河中のモンゴル軍を奇襲し、その分遣隊を川の中に追い込んだ。

              ティムール:
テュルク・モンゴル系の征服者であり、ティムール朝の初代君主、
現在のアフガニスタン、イラン、中央アジアを支配したティムール帝国の創始
者。

         ハーン・トクタミシュ:
1380年から1395年までジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のハンを務めた。一時的に青帳(ココ・オルダ)と白帳(アク・オルダ)を統合し、単一の政治的実体を築くことに成功した。トクタミシュはボルジギン氏族の出身であり、チンギス・ハーンを祖とする家系に連なっていた。

ママイは深刻な問題に直面していた。一見、とっくに征服されたと思われていたルーシが、今や反乱を起こしていたのだ。さらに、ママイは深刻な窮地に立たされていた。強大なティムールに庇護されていたハーン・トクタミシュが、彼に反旗を翻したのだ。ママイは迅速かつ容赦なく行動する必要があった。

ルーシに対する新たな懲罰遠征が組織された。
今回は、オルド内の権力争いの有力者であるママイ自らが指揮を執った。
それは1380年の夏の終わり頃のことだった。

   1389年におけるゴールデン・ホードの支配地域

■ 反逆の王子:戦いの準備:
ママイは、今回、激しい抵抗に遭うことを予見し、遠征に向けた政治的な準備に注力した。彼はリトアニア大公ヤギェウォと交渉を行った。
モスクワのライバルであるヤギェウォは、ドミトリーを弱体化させることに利点を見出していた。オルドと国境を接するリャザンの指導者オレグ公は、曖昧な態度をとった。1世紀半前の1237年、リャザンは侵略に対して激しく抵抗したが、街は完全に荒廃し、住民はほぼ全滅していた。今、わずかに生き残った人々の子孫たちは、この事態に巻き込まれたくなかった。

オレグ公は極めて巧みな政治的柔軟性を見せ、双方に対して忠誠を誓う姿勢を示しつつも、どちらにも軍勢を貸し出すことは拒んだ。
一方、ドミトリーはモスクワの南東に位置する都市コロムナに、自軍および同盟軍の兵力を集結させていた。彼はルーシ全土の戦力を動員できたわけではないが、…モスクワやウラジーミルを含む自身の領国、ノヴゴロドやプスコフからの派遣部隊、そしてセルプホフに拠点を置く従兄弟の軍勢など、諸公国から集められたかなりの規模の軍を指揮下に置いていた。
更に、オレグ公の曖昧な態度にもかかわらずリャザンからも個別の部隊が到着し、ロストフ公国、ニジニ・ノヴゴロド、ヤロスラヴリ、ブリャンスク、スタロドゥプからの軍勢も加わった。リトアニア公国からも小規模な部隊が駆けつけていたが、これらはヤガイロの異母兄弟にあたる亡命公たちの部隊であった。

確かに、これらの兵力はおよそ1万人程度と推定され、決して驚くべき大軍というわけではない。しかし、これは14世紀の話であることを忘れてはならない。当時のルーシは広大な領土を有していたものの、人口密度は低く、巨大な軍隊を編成することは困難だったのである。

戦場の不確実な状況を明らかにする為、監視役、すなわち偵察部隊が草原地帯との境界へ先遣隊として送られた。最初の部隊は草原へと進んだまま消息を絶った。
モスクワからは彼らを捜索するための第二の部隊がすでに派遣されていたが、そこへ最初の部隊の斥候の一人が草原から姿を現した。
その人物こそヴァシーリー・トゥピクであり、彼の部隊はママイの腹心を捕らえていたのである。斥候たちはその捕虜に、敵の所在や作戦計画に関する情報を吐かせた。その情報は極めて重要であった為、情報を入手した兵士の名は年代記に記され、こうして歴史にその名を残すこととなった。

   クリコヴォの野へ向かうドミトリー・ドンスコイ、
    『イヴァン雷帝の図説年代記』のミニチュア画

ドミトリーはママイに向かって一直線に進軍するのではなく、まず西へ向けて急激な機動を行った。これには二つの狙いがあった。第一に、進軍の途上で、主力軍との合流に間に合わなかったいくつかの部隊を『拾い上げる』こと。
第二に、ヤギェウォ率いるリトアニア軍を攻撃しているかのように見せかけ、相手を欺くことである。強力なロシア軍との正面衝突を望まなかったヤギェウォは、…進軍の速度を落とした。そのため、ドミトリーが反転してママイとの戦いに向かった頃には、リトアニア公が追いつくことは困難な状況となっていた。
9月8日の朝までに、ドミトリーは『オルダ(ジョチ・ウルス)』の軍勢との間を隔てていたドン川を渡河した。

これは極めて危険な作戦行動であった。ドン川は大河である。もし敗北すれば、ロシア軍は川の方へと追い詰められ、容易に壊滅させられていただろうからだ。
然し、ドミトリーは長期にわたる機動戦を避けたかった。
彼にとって時間は味方していなかった。背後にはヤギェウォ率いるリトアニア軍の脅威が依然として存在し、リャザンのオレグがどのような動きを見せるかも不明だったからである。それゆえ、彼は野戦においてママイを打ち破り、しかもそれを迅速に行う必要があったのだ。

ドミトリーは戦いの計画を練るにあたり、大いに創意工夫を凝らした。
歴史的に見て、モンゴル軍は機動力に優れた騎兵を擁していた。
ドミトリーは、両翼を森、川、渓谷に守られた地形を戦場として選んだ。
これにより、自軍が包囲されるのを防ぐことができたのである。然し、モンゴル軍はまだ最大の『驚き』を知らなかった。
ロシア軍の布陣において最も脆弱だったのは、大きな樫(かし)の森に隣接する左翼であった。だが、まさにその場所にこそ、ドミトリーは切り札を隠していた。
それは、歴戦の指揮官ボブロクが率いる強力な重騎兵部隊である。ボブロクは強靭な精神力を持つ老練な戦士であり、戦況が危機的になった際に奇襲をかけるという任務を帯びていた。

戦闘が始まる前、ドミトリーはボヤール(貴族)のミハイル・ブレンクと鎧を交換した。それは過酷な決断であった。
公(クニャージ)の鎧を身にまとった者が敵の標的となり、命を狙われることになるのを、ドミトリーもミハイル・ブレンクも理解していたからだ。
それでもドミトリーには、戦場を自由に動き回り、指揮を執る必要があった。
とはいえ、彼は指揮官たちに詳細な指示を与えることも怠らなかった。
9月8日の朝、戦いの火蓋が切られた。

■ クリコヴォの戦場:
年代記によれば、その戦いは二人の戦士による一騎打ちで幕を開けた。
ロシア側からは、アレクサンドル・ペレスヴェトという名の修道戦士が馬を駆って進み出た。かつてブリャンスクの戦士であった彼は、その後修道院に入っていたが、ママイとの戦いに際しては、修道院長の十分な理解と承認を得て出陣していたのである。
ペレスヴェトは、年代記でチェルベイの名で知られる草原の戦士と対峙した。
その名はテュルク系(トルコ系)を思わせる響きを持っているが、それも道理である。ママイの主力軍は、様々なテュルク系民族によって構成されていたからだ。
年代記の記述によれば、二人の戦士は互いに槍を突き合わせ、共に命を落とした。    
       どうやら彼らは正面から激突し!〜、
       どちらも一歩も引かなかったようである!・・・

      ペレスヴェトとチェルベイの決闘
    ヴィクトル・ヴァスネツォフ作(1914年)。

ママイは戦いの主導権を握った。どうやら、草原の軍勢は数で優勢だったようで、ロシア軍は戦闘のほぼ全期間を通じて守勢に回っていた。

■ 軍隊の規模:
ホード(草原の戦士の大群)は各地で一連の攻撃を仕掛けた。
彼らは執拗に敵の弱点を突き、数時間にわたって波状攻撃を繰り広げた。もちろん、何時間も途切れることなく戦いが続いたわけではない。双方とも騎兵部隊が参戦しており、戦いは一連の小競り合いのような様相を呈していた。各分遣隊は互いに突撃し、数分間戦った後、散開して、新たな予備部隊に道を譲った。

        ロシア軍の前衛部隊は!〜、
        本隊より前方に配置されていた!・・・

オルダ(モンゴル軍)の猛攻を受け、彼らはロシア軍の主力である本隊の方へと後退した。右翼はすべての攻撃を撃退し、最も危険の少ない状態にあった。
中央部隊は激しい抵抗を繰り広げ、陣形を崩すことなく持ちこたえた。
戦闘は正午を過ぎても続いた。
ドミトリーと鎧を交換していたミハイル・ブレンクが戦死した。
公(ドミトリー)自身も指揮を執るだけでなく、自ら戦闘に加わり、負傷を負ったが、…然し、それが士気に悪影響を及ぼすことはなかった。
誰もがドミトリー公が戦列のどこかにいることは知っていたが、彼が装飾のない質素な鎧を身にまとっていたため、正確な位置までは分からなかったからである。

だが、ロシア軍の左翼は危機に瀕していた。この部隊は後退を余儀なくされ、指揮を執っていた諸公も戦死していた。小規模な予備部隊が救援に駆けつけたものの、戦況を立て直せたのは一時的なものに過ぎなかった。
オルダ軍は狭いスモルカ川を渡河し、ロシア軍をさ更に後方へと押し戻していった。戦いは佳境を迎え、両軍とも甚大な損害を被り、極度の疲労に見舞われていた。然し、オルダ軍はロシア軍左翼に大打撃を与え、今まさに中央部隊の背後へと回り込もうとしていた。
     その時、ボブロク率いる伏兵部隊がオルダ軍を急襲した。

        クリコヴォ平原の戦い

老練な指揮官は、その好機を完璧なまでに正確に見極めていた。
彼が到着したのは、敵が長きにわたる激闘で疲弊しきっていたものの、ロシア軍の防衛線はまだ持ちこたえていた、まさにその瞬間だった。

大規模な戦闘の終盤において、投入される予備の騎兵部隊は恐るべき戦力となる。数時間に及ぶ激戦の末、オルダ(モンゴル軍)の軍勢は、まるで列車に激突されたかのような衝撃をその側面に見舞われた。
単に戦況が傾いたというだけではない。オルダ軍はパニックに陥ったのである。
今や崩壊し始めたのはロシア軍の左翼ではなく、オルダ軍の右翼であった。

全戦力をすでに投入し尽くしていたママイには!〜、
       もはや増援など残されていなかった!・・・

オルダ(モンゴル軍)への追撃は、ドミトリーの従兄弟であるセルプホフ公ウラジーミルが指揮を執った。
ママイは逃走し、その軍勢の大部分もまた、疲れ切った馬に跨って彼に続いた。
ロシア軍は敵を約30キロメートルにわたって執拗に追撃した。

ロシア軍の損害も甚大であった。その後数日間、軍は『死体の山』の間に留まり、戦死者の収容や負傷者の手当て、そして回収可能なあらゆる武器や装備品の収集にあたった。

ドミトリー公は、折り重なる死体の中から発見された。彼は生きてはいたものの重傷を負っており、鎧は無残に破壊され、意識を失っていた。
彼は戦士たちの先頭に立ち、戦棍(メイス)を手に生涯で最も重要な戦いを繰り広げ、その勝利の代償として命を落としかけていたのである。残念ながら、彼がどのような状況で負傷したのかを記録した史料はないが、彼が発見された場所がすべてを物語っている。そこは、言うまでもなく左翼の戦線であった。

この瞬間から、モスクワ公ドミトリーは歴史に名を残すことになる『ドミトリー・ドンスコイ(すなわち「ドンのドミトリー」)』の名で知られるようになった。
9月14日、軍は帰路についた。

  クリコヴォの戦場におけるドミトリー・ドンスコイ

■ あとがき:
         クリコヴォの戦いは!〜、
        極めて大きな心理的影響をもたらした!・・・
ロシア軍は、堅固な城壁の背後に立てこもることも、単なる分遣隊を打ち破るにとどまることもなく、本格的な野戦において『オルダ(モンゴル軍)』を敗走させ、敵の主力野戦軍を完全に壊滅させたのである。
この勝利は、単独の公国によって成し遂げられたものではなく、広範な同盟勢力によって達成されたものであった。敗走するオルダの軍勢の背中を自らの目で見た者たちが、ニジニ・ノヴゴロド、プスコフ、ノヴゴロド、そしてヤロスラヴリへと帰還していった。
戦いの後、リトアニア軍は静かに自国へと撤退した。

バルト3国の一つであるリトアニアはロシアが苦境に立つと、ロシアの敵対国である国に媚びる嫌味な性情を有していたようですね!。
現在の状況にピタリと溶け込みます。ロシアが米国主導でEU(NATO)がロシアを叩き潰そうと!、病的な敵愾心を持ち、これの裏返しの狂気のウクライナ支援で既に宣戦布告なしの対ロシア戦争の渦中に立っています、
この状況を好機としてロシアと米欧の戦争を鼓舞している。
バルト3国の対ロシアへの憎悪を狂気に近いものがあります。
こんな異常な国ばかりのEUの未来は限りなく暗い!と言わざるを得ません。

         トクタミシュ・ハン:
1380年から1395年まで、黄金のオルドのハンを務めた。彼は一時的に、青のオルドと白のオルドを統合し、単一の政治体制を築くことに成功した。

トクタミシュはボルジギン家に属し、その祖先はチンギス・ハンに遡る。

勿論、独立への闘争はそこで終わったわけではなく、… この敗北の後、
ママイはジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)内部の権力争いでトクタミシュ・ハンに敗れ、クリミアへ逃亡し、、そこで殺害された。
トクタミシュはウルスのかつての栄光を取り戻そうと動き出し1382年、彼はルーシに対して新たな遠征を行い、ドミトリーが野戦軍を編成している隙を突いてモスクワの占領に成功した。
ドミトリーは苦渋の決断の末、過去2年分の貢納を行いました(それ以前の未納分については支払わなかった)。然し、クリコヴォの戦いは、ルーシとウルスの関係に新たな様相を齎した。トクタミシュは、モスクワの支配者として別の人物を据えようとはしなかった。ルーシの人々の間には独立と政治的統一の機運が定着し、…モスクワがその過程を主導するようなった。
ロシア人は依然として貢納を続けたが、それを回避する機会を常に待っていた。
貢納の間隔は長くなり、ウルスとの戦いでの勝利も増えて行った。

1395年、トクタミシュ・ハンは、かつての同盟相手でありながら対立関係に陥っていたティムールによって壊滅的な敗北を喫した。
ウルスは崩壊の道をたどり、ロシア人はその過程を可能な限り加速させた。

1389年、ドミトリー・ドンスコイは40歳を待たずに死去した。
その早すぎる死の原因は不明。然し、彼は偉大な遺産を残した。
それは、ルーシ統一の主導者となる広大な公国、彼の政策を継承した息子、そして二度と独立を失うことのない統一国家という理念でした。

14世紀末には、クリコヴォの戦いを題材とした文学作品『ザドンシチナ』が発表されました。

1480年、イヴァン3世は!〜、
      ルーシの完全な政治的独立を確立した!・・・
その時点で、ウルスへの従属関係はすでに形骸化しており、イヴァン3世はその新たな現実を公に確定させたのである。

1783年、女帝エカチェリーナ2世がクリミアを併合した。
これは、ジョチ・ウルスの最後の断片がロシアに組み込まれた出来事だった。
こうして長きにわたる対立は終結し、すべての清算がなされたのだった。

この歴史的事実に依って、ウクライナの狂った主張(クリミヤはウクライナの固有の領土)が、国際社会で通用しないのは当然です。

                                                


今日のブログ更新記事は長文すぎ、執筆中に何度も途中でやめようかなあ!と思いましたが、ロシアの歴史は学校で殆ど学ぶ機会はなく興味深いものがあり、その上強大なモンゴル帝国が日本にも来襲した事もあって、ルーシー(当時のロシア)がどのように対応し、艱難辛苦!の上、蒙古軍を撃退し独立主権国家を確立したか!?を学びたくて、最後まで参考文献を読破してブログ更新記事を執筆致しました。

参考文献に付帯しているコメント欄に寄せられた読者の方々から寄せられた声を纏め抜粋して列記致します。


■ 「戦士の聖人」――なんとも悲しく、少なくとも私の目には
  非キリスト教的と映るものですが、間違いなく帝国の象徴と言えるでしょう。

■ 歴史に関する参考文献記事は素晴らしいですね。私たち(スペイン)に
 とってはほとんど知られていない分野ですので、他の参考文献などを挙げて頂け
 れると更に役立つと思います。素晴らしい記事をありがとうございます。

■ モンゴルからのルーシ解放に関する興味深い歴史の授業!・・・

■ プーチンは自らをロシアの王族のように考えているかもしれないが、
  彼の家族を権力の座に就かせたのはボリシェヴィキ・アシュケナージ・マフィ
  アだった。このユダヤ人革命運動と、彼らの隠れユダヤ人指導者レーニン、
  そしてドイツ諜報機関のユダヤ人仲間マックス・ワールブルクが、
           ロシア皇帝を打倒したのだ。

■ 素晴らしい歴史ですね!エカチェリーナ2世は、
  その時代を先取りした「女性のための女性」でした(笑)!
  ドミトリー・ドンスコイは、ロシアの真の英雄でした!
   ブロンクスボーイより(投稿者の自称)

■ ホードスレイヤー(モンゴル大軍を駆逐せし英雄)たちへ —— 
   いつまでも愛され、私たちの記憶に残り続ける!・・・

■ キリスト教会の指導者や聖職者が戦士たちを聖別する姿には、
  いつも困惑させられます。キリストの教えに従う者、すなわちキリスト教徒で
  ありながら、どうして戦争を推奨し、賛美することなどできるのでしょうか。
  キリストなら彼らに何とおっしゃるだろうか、と思わずにはいられません。

キリストも理解するでしょう。聖職者!と言えど実体は人間であり、本能を備えています。詰まり生存本能が呼び戻されるのは当然です。生存本能は自分が、家族が、国が滅亡の危機に置かれた時は戦う事を決意します。
           🔺🔺🔺
   ■ ヨハネによる福音書15章13節で、
    イエスはまさに次のように言われました。
    「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
           🔺🔺🔺
    ■ キリストは両替人たちを追い出し!〜、
     彼らに「わたしは光である」と告げた!・・・
            🔺🔺🔺
このコメントは『キリストが、私利私欲や不正にまみれた場所を正し、神聖な光(真理・正義)をもたらす』、の意味合いです。
            🔺🔺🔺
    ■ いいですか、自然の法則とは異なり、神学的あるいは政治的な物語と
     いうものは、大衆を支配する権力を握っている者(あるいはかつて握っ
     ていた者)が作り出した単なる「発明品」に過ぎません。
     イエスやキリスト教に関する物語も、この前提の例外ではありません。
     それらは、フラウィウス朝のローマ皇帝たちによって創り出されたもの
     なのです。イエスと全く同じ特徴を持つ神々の系譜に目を向ければ、
     それが単なる安っぽい盗作に過ぎないことは明らかでしょう。

   ■ あなたも『ウランティアの書』で「闇と死の乱痴気騒ぎ
    (orgy of darkness and death)」というフレーズを調べてみるといい―
    ※ルシファー信奉者たちは、もう20万年もの間、同じ手口を繰り返して
    いるんだから……。
    俺は「誰もが金大好き」という典型的な浅はかなアメリカ人さ―
    40兆ドル、何もかもが「醜悪(UGLY)」そのものだ。
    俺は醜悪なものには関わらないし、金も払わない……。
    戦争ゲームが破綻したからといって飢饉を引き起こすような銀行は、
     決して許されないんだ。

ルシフェリアニズム(Luciferianism)の信者(ルシフェリアン)とは、悪魔や堕天使とされる「ルシファー(Lucifer)」を、キリスト教的な「絶対悪の悪魔」としてではなく、「光をもたらす者」「知性と啓蒙の象徴」「自由の守護者」として崇拝または尊重する人々のことです。

 国家に利用されたようなキリストは、実際には存在しませんでした。
  イエスの根本的な教えは、互いに愛し合い、敵をも許すことでした。

 このプーチンというのは、ユダヤ系マルクス主義による極めて世俗的かつ
  抑圧的なソビエト連邦で、要職に就いていたあのプーチンと同一人物なのか?
  世俗的なソビエト連邦への深い愛を語っていた、あのプーチンと同じなのか?
  今や君たちは彼を正教徒だと信じているようだが、彼はかつて、今では愛して
  いるはずの教会を弾圧するために尽力していた人物なのだぞ?
  プーチンは使徒パウロのような存在ではない。
  彼はイエス・キリストの血によって救われたことなど一度もない男なのだ。

 こうした往年のロシア人たちは、ウクライナ人やゲルマン人という
  自らの生みの親ではなく、モンゴル人と手を組んだプーチンやラブロフを
   殺害していただろう。

このコメントの投稿者は、なにか勘違いをしているようですね!、
意味不明で、その上現ロシアの政権を憎悪している感情に包まれ、事象を全く把握はしていません。
           🔺🔺🔺
   ■ バンデラの靴でも舐めてろ!・・・

強い軽蔑や侮蔑を込めた悪態(罵り言葉)です。投稿者は恐らくウクライナ人だ!と思われます。Bandera(バンデラ)とは、20世紀前半のウクライナの極右・独立運動指導者である ステパ ン・バンデラ(Stepan Bandera)のことで、この人物を崇拝しているようです。

 今日、ロシアはNATOと呼ばれる
         「新たな黄金のオルダ」と戦っている!・・・

これは、的確に現今のロシアを把握しており、共感を覚えます。
              🔺🔺🔺
   ■ NATOは、ユダヤ至上主義マフィアに奉仕する
       テロリストの集団に過ぎない!・・・

 ■ ユダヤ系ボリシェヴィキが数万人の聖職者や修道士・修道女を含む数千万人
  のロシア正教徒のスラブ人を殺害し、2万以上の教会を破壊・冒涜したにも
  拘らず、ロシアと正教が今なお存続しているのは喜ばしいことです。
  ユダヤ至上主義のマフィアは、ウクライナでの戦争を画策してロシアを破壊
  するという夢を依然として諦めていないようですが、ロシアを分断しようと
  する彼らの計画が失敗に終わることを願っています。

参考文献:

■【Russia opened an ancient tomb – and found a message for today】:

https://www.rt.com/russia/645231-dmitry-donskoy-battle-of-kulikovo