2026年9月13日日曜日

第二次世界大戦の終戦間近時 旧ソ軍の主流を為していたウクライナ兵!…



ブログ主の父親は数奇な運命に弄ばされ
(終戦10日前に満州で外地召集令状、)で
      出征し!〜、
   不帰の人となりました!・・・
戦後ソ連の日本兵捕虜収容所に
   抑留され劣悪な環境!〜、
《栄養失調/極寒/強制重労働/感染症
/医療不足》の中で愛する妻と幼い子供3人を残し憤死(病没)しました!・・・


このような私的な家族歴史があるブログ主は、ロシア=ウクライナ紛争が勃発した時、他人事と思えず紛争の背後に潜む真実を見極めよう!としました。


ロシアが悪!、ウクライナが白馬の騎士!決めつけ、… 紛争の背後にある(何故紛争が起きたのか?)重要な鍵を無視して米国、EU,及び西側諸国のメデイアの壮大な粉飾報道(バイアス、洗脳)が始まりました。
その結果、西側諸国の人々はロシアを憎悪し、その感情はウクライナへの支援と移行して、紛争はロシア対ウクライナ紛争に留まらず、米、欧州、アジア、オセアニアが間接的に関与する世界大戦の様相へと変幻して行きました。

ブログ主の父親が満州で外地召集令状で出征し、… 当時、満州国境に配属されていたソ連軍。父が属していた大隊(独立歩兵第31大隊)がソ連軍と対峙していた事が判明しました。

当時のソ連赤軍の構成は、ソ連人兵卒とウクライナ人兵卒が主体であった事から、ウクライナ兵の数をAI(ChatGPT))に調べて貰いました。
非常に興味深い結果であり、ブログ更新記事に取り上げる事に致しました。

以下、AIとの遣り取りを記載致します:

小山圭介(ブログ主):
大東亜戦争当時、満州/旧ソ国境に配備されていた旧ソ軍の兵卒の構成、もし可能なら、特にウクライナ人兵士の数を調べて頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。

ChatGPT:
はい、調べてみました。
この問題はかなり興味深いのですが、『満州国境にいたソ連軍のうち、ウクライナ人が何人いたか』について、直接的な公式統計は現在確認できません。ただし、ソ連赤軍全体の民族構成と、1945年8月の極東ソ連軍の兵力を組み合わせると、かなり妥当な推定はできます。
結論を先に申し上げます

1945年8月の満州侵攻ソ連軍約158万人の中には、相当数のウクライナ人兵士が含まれていた可能性が高いです。
ただし、『満州侵攻軍には○万人のウクライナ人がいた』、… 
と断定できる資料は、今のところ確認できません。

赤軍全体では1945年1月時点で、**ウクライナ人は兵卒の21.7%**を占めていました。もし極東方面軍でも同程度だったと仮定すれば、158万人 × 約20~22%で、
約32~35万人のウクライナ人!という非常に大きな数字になります。

ただし、これは**『推計値』であって実数ではありません**。

① まず「満州国境にいたソ連軍」はどの程度だったのか:1945年8月9日、ソ連軍は満州に対して大攻勢を開始しました。

ソ連極東軍総司令部の兵力は!〜、

部隊人員
ザバイカル方面軍   約65.4万人
第1極東方面軍約58.7万人
第2極東方面軍約33.7万人
合計約157.8万人

でした。

さらに、ソ連軍は!〜

  • 約89個師団・・・
  • 約5,500両の戦車・自走砲・・・
  • 約27,000門の火砲・迫撃砲・・・
  • 約3,700機の航空機・・・

を投入しました。

つまり、これは単なる『国境守備隊』ではなく、ヨーロッパ戦線から大量に移動させた大規模な攻撃軍です。

② ここが重要です――
    『満州にいたソ連兵=極東出身者』ではない:
この点が非常に重要です。

1945年春まで、ソ連赤軍の主力はドイツとの戦争をしていました。
そしてドイツ降伏後の1945年5~7月に、ヨーロッパ戦線から極東へ大量の部隊を鉄道輸送したのです。

研究資料によれば、1945年5~7月に大規模な再配置が行われ、8月9日の攻撃開始時にも部隊の移動は続いていました。
日本の防衛研究所の資料でも、7月末までに極東方面へ約150万人の兵士が集結していたとされています。
したがって、『満州国境に配置されていたソ連兵=ロシア極東の住民』
ではありません。

ここには、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、中央アジア、コーカサスなどソ連各共和国出身の兵士が大量に含まれていたと考えるべきです。


③ では、ウクライナ人は赤軍の何%だったのか?:
ここはかなり確実な統計があります。

1945年1月の赤軍では!〜、

   民族        全兵士に占める割合
ロシア人    ➡️       約61.9%
ウクライナ人     
➡️       約20.4%
ベラルーシ人  ➡️                      約4.3%
その他.                  ➡️                         約13.4%
という構成でした。

さらに『兵卒』に限定すると、1945年1月は!〜、
ロシア人   
➡️ 58.4%
ウクライナ人    ➡️ 21.7%
でした。
これは非常に注目すべき数字です。
つまり、1945年の赤軍兵卒のおよそ5人に1人がウクライナ人
だったわけです。

④ ウクライナ人は戦争末期に急増している:
これも重要なポイントです。

1943年1月には赤軍におけるウクライナ人の割合は!〜、
       僅か約10.9%でした!・・・
ところが1944年7月には、21.17%まで上昇しています。
何故か?、ドイツ軍からウクライナ領土を奪還するにつれて、ソ連軍がウクライナ人を大量に動員したからです。

実際!〜、

  • 1943年1月:約99.6万人
  • 1944年7月:約253.5万人
へと、赤軍内のウクライナ人兵士数が急増しています。
従って、1945年のソ連軍には大量のウクライナ出身兵士が存在していた事は、
かなり確実です。かなり確実です。

⑤ では「満州侵攻軍のウクライナ人」を計算すると?:
ここから先は推定になります。


極東方面軍1,577,725人に、赤軍兵卒のウクライナ人比率約21.7%を単純適用すると、1,577,725 × 0.217 ≒ 342,600人となります。

つまり、約34万人という数字になります。ただし、これはあくまで全国平均を極東軍に当てはめた場合の試算です。

ブログ記事でこの数字を使う場合、『約34万人のウクライナ人がいた』、…
とは書かず、《赤軍全体の民族構成から単純推計すれば、1945年8月のソ連極東軍157万人のうち30万人台がウクライナ人だった可能性がある。ただし、極東軍だけを対象とした民族別実数の公的統計は確認できない》、…
と書くことをお勧めします。この表現なら、かなり堅実です。

⑥ そして、もう一つ面白い点があります:
『ウクライナ兵』という言葉には注意が必要です。

1945年当時の彼らは、現在の「ウクライナ軍兵士」ではありません。
彼らは、
ソビエト社会主義共和国連邦(USSR)の赤軍兵士です。
したがって、『ウクライナ人兵士」』という民族的な意味と、…
『ウクライナ軍兵士』という国家・軍事組織上の意味は全く違います。
当時ウクライナはソ連邦構成共和国でしたから、ウクライナ出身者はソ連赤軍として日本軍と戦ったという事になります。

⑦ ただし、もう一段掘り下げる価値があります:
今回の調査で、私(ChatGTP)はむしろこちらが興味深いと思いました。

《1945年8月9日に満州へ侵攻した各方面軍・各軍・各狙撃師団について、
  どの部隊がヨーロッパ戦線から移動してきたのか》、…
  まで追えば!〜、
《この師団は1944年にウクライナで戦っていた》・・・
        ⬇️
《1945年春にドイツ軍との戦闘に参加》、・・・
         
⬇️
《5~7月に極東へ移動》、・・・
        
⬇️
《8月9日に満州侵攻》、・・・

という具体的なウクライナ人兵士の移動経路を、師団単位でかなり追跡できます。
これは、単純な『約34万人』という推計よりずっと面白い調査になります。
特に、第1極東方面軍、第2極東方面軍、ザバイカル方面軍の主要狙撃師団について、『編成地・1944~45年の戦歴・極東への移動・民族構成』を一つずつ照合すると、かなり実像に近づけます。

今回確認した資料では、赤軍全体のウクライナ人比率についてはかなり信頼できる統計がありますが、『満州侵攻軍のウクライナ人○人』という直接統計は見つかっていません。従って、ここは推計と実数を厳格に区別するのが重要です。

ChatGPT:
もしよろしければ次に、**「1945年8月のソ連極東軍を師団レベルまで分解し、その中でウクライナ戦線から転用された部隊を特定する」**ところまで調べてみましょう。これはかなり興味深い結果になると思います。


小山圭介(ブログ主):
是非とも調べて見て下さい!。これは私にとって非常に興味深いものです。
特に私の父親は戦後シベリアに抑留され、収容所で憤死した事もあり、尚更です。

ChatGPT:
はい。今回、かなり詳しく追ってみました。
そして、お父様が戦後シベリアに抑留され、収容所で亡くなられたというお話を伺い、今回の調査が単なる歴史上の数字ではなく、ご家族に直接つながる歴史なのだと感じました。
調べてみると、非常に重要な事実が浮かび上がってきました。

結論―満州侵攻軍には
 『ヨーロッパ戦線帰り』のソ連兵が大量にいた:
945年8月のソ連軍は、従来から満州国境にいた兵力だけではありません。

1945年4~7月に、ヨーロッパでドイツ軍と戦っていた部隊を大量に極東へ移送しています。David Glantzの研究によれば、極東方面のソ連軍は約40個師団から80個以上へと倍増し、5~7月には大規模な移動が行われました。9,000~12,000kmにも及ぶ移動で、約13万6,000両の鉄道車両が使用されています。

そして、ここが非常に重要です。
その中には、ウクライナ戦線で戦っていた部隊がかなり含まれていました。

1.特に注目すべきは「第5軍」です:
第1極東方面軍の主力だった第5軍は!〜、
1945年4月まで東プロイセンのケーニヒスベルク方面で
     ドイツ軍と戦っていました!・・・
そして4月22日から極東への鉄道輸送が開始されています。

この第5軍には!〜、
  • 第63狙撃師団
  • 第97狙撃師団
  • 第144狙撃師団
  • 第157狙撃師団
  • 第159狙撃師団
  • 第184狙撃師団
  • 第215狙撃師団
  • 第277狙撃師団
  • 第371狙撃師団
という9個狙撃師団が含まれていました。
しかも、第5軍は単なる後方部隊ではありません。
ドイツ軍との東プロイセン戦役、そしてケーニヒスベルク攻略を経験した実戦経験豊富な精鋭部隊でした。

そして、その兵士たちが数か月後!〜、
  ドイツ軍 
 ➡️  シベリア鉄道  ➡️  満州  ➡️ 日本軍!・・・
という、とんでもない戦場移動をしています!・・・

2.さらに興味深いのが「第39軍」:
  第39軍も重要です。

この軍は1945年5月まで!〜、
  東プロイセンのケーニヒスベルク方面で戦っていました!・・・
5月から6月にかけてモンゴル方面へ移動し、6月20日にザバイカル方面軍に編入されました。

当時の第39軍には!〜、
  • 第17親衛狙撃師団
  • 第19親衛狙撃師団
  • 第91親衛狙撃師団
  • 第124狙撃師団
  • 第221狙撃師団
  • 第358狙撃師団
  • 第192狙撃師団
  • 第262狙撃師団
  • 第338狙撃師団
  • などがありました。
そして8月9日、
満州北西部から一気に攻撃開始。
この軍は大興安嶺を越え、満州中央部へ進撃しています。

3.さらに『第6親衛戦車軍』:
 これも非常に面白い部隊です。

第6親衛戦車軍は!〜、
  1944年:2方面ウクライナ戦線で戦い、
  • コルスン=シェフチェンコ作戦
  • ヤシ=キシナウ攻勢
  • デブレツェン
  • ハンガリー
  • ウィーン
  • チェコスロバキア
  •         と転戦しています!・・・
そしてドイツ降伏後、そのまま極東へ移動。
8月9日の満州侵攻では、ザバイカル方面軍の先鋒として進撃しました。
しかも、この戦車軍は約1,019両の戦車・自走砲を有していました。
つまり、ウクライナ戦線でドイツ軍と戦っていたソ連兵が、数か月後には満州で日本軍を攻撃していたという事です。



4.『ウクライナ人が多かった可能性」』が
     かなり重要になります
 ここで、前回お話しした民族統計が効いてきます。

1945年1月の赤軍全体では!〜
    ウクライナ人:約20.4%でした!・・・
しかも1944年7月には21.17%に達していました。

更に重要なのは、現役の前線部隊ではウクライナ人比率が平均より高かった
という研究結果です。

1944年7月には、現役前線部隊のウクライナ人比率は**23.3%でした。
更にウクライナで戦っていた第1・第2・第3ウクライナ方面軍では、ウクライナ人の比率がさらに高く、一部の軍では50~80%**に達した例も確認されています。
これは非常に重要です。

5.では、その兵士たちはどこへ行ったのか?:

 ここが今回の調査で私が最も興味深いと思ったところです。

ソ連軍は1945年春!〜、
ヨーロッパ戦線の経験豊富な部隊を選抜して極東へ送ったのです!・・・

Glantzは
(軍事史家)、単純に兵員を集めたのではなく、
過去の戦闘経験が満州で予定されていた作戦に適している部隊を選んだと説明しています。

例えば!〜、

ソ連軍      欧州での経験       満州での任務
第5軍      ケーニヒスベルク攻略    東部満州の要塞地帯突破
第39軍     ケーニヒスベルク攻略     ハルハ~アルシャン方面
第6親衛戦車軍  カルパチア・ハンガリー・ウィーン  大興安嶺突破
第53軍      カルパチア方面          西部満州
  という非常に合理的な配置でした。


6.そして「第53軍」も重要です:
 第53軍は特に興味深い存在です。

この軍は、第2ウクライナ方面軍としてドイツ軍と戦っていました。

1944~45年には!〜、
• コルスン=シェフチェンコ
• ヤシ=キシナウ
• デブレツェン
• ブダペスト
• プラハ
 など戦闘に参加。

そしてドイツ降伏後、そのまま極東へ移送されています。
まり、この軍については、『ウクライナ方面で戦っていた軍が、そのまま満州へ転用された』、… という非常に明瞭な戦歴を確認できます。

7.ただし、ここで一つ慎重にならなければなりません:
 ここはブログを書く際にも非常に重要です。

『第53軍は第2ウクライナ方面軍だった』からといって、『第53軍の兵士はウクライナ人だった』という意味ではありません。
方面軍の名称は作戦地域・編制上の名称であり、民族構成ではありません。

一方で、実際に第2ウクライナ方面軍などでは!〜、
ウクライナ出身者が非常に多かった事が統計的に確認されています!・・・
1944年7月には、現役前線部隊全体で23.3%がウクライナ人でした。

したがって、『ウクライナ方面で戦ったソ連軍=ウクライナ人軍団』
とするのは間違いですが、『その中には大量のウクライナ人兵士が含まれていた』
という表現なら、かなり確実です。

8.そして、お父様の「シベリア抑留」とつながります:
   ここからが、お父様のお話と直接つながってきます。

1945年8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻。
8月15日、日本がポツダム宣言受諾を決定。
ところが、ソ連軍は日本軍を武装解除した後、兵士を帰国させるのではなく、…
大量の日本人をソ連領内へ移送しました。

8月23日、スターリンは50万人の日本人捕虜をシベリアへ移送する命令を出しています。

最終的には、60万人を超える日本人がソ連によって拘束され!〜、
   シベリアなどの労働収容所へ送られました!・・・

そして収容所では!〜、
• 栄養失調
• 極寒
• 重労働
• 感染症
• 医療不足
 などによって、多数の日本人が亡くなりました!・・・

日本側の1947年の調査では!〜、
25収容所について**20万9,300人中5万1,332人死亡、死亡率24.5%**と
   いう非常に深刻な数字も記録されています!・・・
ただし、この資料は日本側の帰還者証言などを基にした初期調査なので、…
現在の研究で使う際には数字の性格を明記する必要があります。

9.今回の調査から見えてきたこと:
お父様が満州でソ連軍と遭遇された可能性があるなら、そこには、
『極東に昔から駐屯していたロシア人兵士』だけではありません。

むしろ1945年8月のソ連軍には!〜、
• ウクライナ方面でドイツ軍と戦った兵士!・・・
           ⬇️
• 東プロイセン・ハンガリー・オーストリア方面で戦った兵士!・・・
           ⬇️       
• 5~7月にシベリア鉄道で東へ移動!・・・
           ⬇️
• 1945年8月、満州侵攻!・・・
  という経歴を持つ兵士が大量に存在していました。

そして赤軍全体では約5人に1人がウクライナ人だった
ですから、前回の『約34万人』という単純推計よりも、今回の調査結果を踏まえて、《1945年8月の満州侵攻ソ連軍には、数十万人規模のウクライナ人が含まれていた可能性がある。ただし、極東方面軍そのものの民族別名簿が確認できないため、具体的な人数は断定できない》、…
というのが、現在最も学術的に安全な結論だと思います。

そして、ここから先が本当に興味深いです:

もしお父様が**満州のどこに所属しておられたのか(関東軍の部隊名、勤務地、捕虜になった場所など)**が少しでも分かれば、さらに一歩進められます。

《お父様がいた場所を攻撃したソ連軍はどの軍・どの師団だったのか》、…
→「その師団はどこから来たのか」
→「1944~45年にウクライナのどこで戦っていたのか」
→「その師団の兵士構成にウクライナ人がどの程度いたのか」
→「お父様が捕虜になった後、どの経路でシベリアの収容所へ送られた可能性があるのか」

というところまで追跡できます

ここまで来ると、単なる『ソ連軍にウクライナ人がいた』という話ではなく、…
お父様が遭遇された可能性のある部隊の“戦歴”を再構成する調査になります。

お父様のことを考えると、私はこの続きをぜひ丁寧に調べてみたいと思います。

                                                

今日は!、これで打ち切ります。
可也の長文のブログ記になって仕舞いましたので、後日改めて、本日の記事の続き、… 父親が遭遇した可能性のある部隊の戦歴などを調べたい!と思います。
私的なブログ記事となりますが、ブログ主が幼い頃(記憶にありません)、外地出出征し『不帰の人!』となった父親の最後の日々を如何に過ごしたか!?
ブログ主の人生の締め括りとして調べ、確認したい!と思います。
記事執筆が完了したらブログ更新記事として発信するか!は決めてはいません。


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