1993年8月4日、政権与党の愚かな判断で、南朝鮮の政府高官の ※ “約束” に釣られて慰安婦問題(本質は兵士相手の当時は合法であった売春)で謝罪する内閣官房長官・河野談話が発表された!・・・
※筆者註 :談話の作成過程で、南朝鮮側から「元慰安婦の証言を認めてやってほしい」との要請があり、証言に沿った談話が出れば「過去の問題は決着し、未来志向の日韓関係を醸成できる」という示唆があった事で、・・・当時の日本政府は政治的判断として、検証もせずに一方的な証言をもとにした河野談話を発表した!と言われている。
この談話は事実からは程遠く虚構といえる物であったが、政治的な配慮で歴代政権は河野談話を破棄する事は出来ず、・・・その間、軍関与、慰安婦の強制連行が強調されれた談話が一人歩き始めた。
最初は幼児の如くの “よちよち歩き!” から、時空の推移と共に地響きを立てる程の凄まじい威圧感をもった歩みに変わり、・・・旧日本軍兵士の尊厳が汚され上、更に言われなき不当な汚名(拉致、強制連行、強姦、若き朝鮮人女性を性奴隷に貶める)を着せられて仕舞った。 日本国及び戦後生まれた戦争を知らない世代の上に、慰安婦問題は重苦しく圧し掛かり現在も尚苦しめている。
慰安婦問題は南朝鮮の対日本外交の、謝罪を求め更に莫大な戦後賠償金をせしめる最大の武器となり、日本の同盟国である米国内では南朝鮮人系の住民は本国の指令を、活動資金を得て、・・・米上下院議員に対して歪んだ歴史を振りかざして米国上下院議員に反日プロパガンダのロビー活動を狂気の如く仕掛けて日本国の尊厳を深く毀損している。
南朝鮮系の在米住民、市民団体が「VANK, Voluntary Agency Network of Korea」と一致団結して米上下院議員及び各州の地方政治家(南朝鮮系住民の多い選挙区)に的を絞り強力なロビー活動を展開した結果、・・・全米各地に慰安婦像、事実に反した不当な語句を刻んだ石碑が設置されたが、満足せず更に可能な限り数多く設置しようと企んでいる。
既に米国内に設置された慰安婦像、石碑は・・・
✦ グレンデール市/カルフォルニア州(慰安婦像、石碑)
✦ ハッケンサック/ニュージャージー州 バーゲン郡(石碑)
✦ アイゼンハワー・パーク/ニューヨーク州ナッソー郡(石碑)
✦ パリセイズ・パーク/ニュージャージー州 バーゲン郡(石碑)
✦ 郡庁舎敷地内/バージニア州フェアファクス郡(石碑)
などが数えられえる
何故に慰安婦に何らの関係のない米国でこのような異常な事が起きるか?・・・、 また何故に地方自治体の為政者が、日米韓の外交関係(日米同盟)を毀損して日米関係に皹が入る可能性が限りなく高い慰安婦像、石碑の設置を許すのか?。
加えて米連邦政府オバマ政権は無作為の限りで何らの手も打たずでは、日本国内ではオバマ政権、強いては米国民への不信感が日ごとに蓄積され、何れは反米運動が惹起される可能性が非常に高い。
例え反米運動が起きなくとも日本国民の心底には、同盟国である筈の米国のイメージ(印象)は悪化して、嘗ての信頼できる友人としての米国の好印象は薄れていく一方で、悲しい限りです。
何れにしても南朝鮮人が米国に移住⇒移民して市民権を取得した後も、新天地米国人の特性(親切!、明るい!、潔癖!、正義感、寛大!)を学ばずに相反する活動!、・・・母国での問題を引きずり他国(日本)を攻撃する政治的な活動をするのか?、また此れを地方の為政者達が傍観、無作為で南朝鮮系の住民を勝手気侭にさせているのか?、筆者に理解出来ません。
「反日プロパガンダ・ロビースト」がぶら下げた人参の甘さ(報酬金)に魅入られたのか?、米国人は変わり、・・・筆者が1963年に初渡米した以後、8年間に亘り米国で生活し、知己になり友人として50年経った今でも交流している方々とは同じ米国人か?と,余りの豹変振りに驚愕すると同時に此れは悪い意味での変貌であり、悲しい限りです。
目を閉じると在米期間中に仕事でデトロイト、ニューヨーク市、ナッシュビル市、ロス市の各都市で知り合った方々の明るい、人の良い、親切さが溢れ出た持て成しが今でも鮮やかに思い出され筆者の脳裏に浮かび上がります。これ等の思い出は筆者の宝物であり!・・・、此の宝物を米国上下院議員、地方自治体の為政者達及び在米南朝鮮系住民たちに汚されたくありません。
設置された慰安婦像、石碑の画像:
慰安婦を象徴する少女像に献花するエドワード・ロイス下院外交委員長=米カリフォルニア州グレンデール市で2014年1月31日、堀山明子撮影
IN MEMORY
OF THE MORE THAN 200,000
WOMEN AND GIRLS WHO WERE
ABDUCTED BY THE ARMED FORCES OF
THE GOVERNMENT OF IMPERIAL JAPAN,
1930's - 1945
KNOWN AS "COMFORT WOMEN,"
THEY ENDURED HUMAN RIGHTS
VIOLATIONS THAT NO PEOPLES SHOULD
LEAVE UNRECOGNIZED.
LET US NEVER FORGET THE HORRORS
OF CRIMES AGAINST HUMANITY.
DEDICATED ON OCTOBER 23, 2010
COUNTY OF BERGEN,
COUNTY EXECUTIVE
THE BOARD OF CHOSEN FREEHOLDERS,
AND THE BOROUGH OF PALISADES PARK
THE "COMFORT WOMEN"
DEDICATED ON JUNE 20, 2012
NASSAU COUNTY
EDWARD P MANGANO, COUNTY EXECUTIVE
KOREAN AMERICAN PUBLIC AFFAIRS COMMITEE
GWANGJU METROPOLITAN CITY. REPUBRIC OF KOREA
これ等の慰安婦像や石碑が設置された後は、現地の米国人が多大に影響を受けて日本人に対して好ましくない印象を持つようになった。また児童たちも親に、あるいは慰安婦像や石碑を直接見て歪んだ感情を植えつけられて学校や路上、ファースト・フードレストランなどで日本人の児童たちへも悪口雑言、さらには唾を吐きかれる苛めが始まった。
苛めに遭った日系児童たちの、ある一人は罵倒され唾を吐き掛けられて為す術もなく家に帰り!、・・・両親に向かって私たちのお祖父ちゃんたちは石碑に刻まれている様な悪い事をしたのか!、泣いて両親に問うて、挙句は机に自分の頭を打ちつけて『僕の体の中には悪い血がながれている!』叫んだという。
親は石碑に刻まれている文面に反論する資料も持たず、悪いことには日本政府が問題解決するには米国との軋轢を惹起する事を恐れ静観しているだけで、河野談話を見直し又は破棄もせずでは、・・・我が子に石碑の文面は嘘である!との説明も出来ず、呆然と立ち尽くすだけだった。
「慰安婦は売春婦」裏付ける米公文書の存在:
東京スポーツWeb( 2014年2月23日)
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/237461/
✦ 慰安婦に関する最も重要な事実を記載してあるものとしては『アメリカの公文書』が存在する。当時ビルマのミートキナを制圧した米軍が捕らえた韓国人慰安婦20人に尋問した記録をまとめたもので、・・・証拠価値が高いのは、直接の尋問記録であり、また別に訴訟のためではないから、意図的な誘導尋問をしているわけではなく、客観性がかなり高い!・・・
✦ 米公文書に「慰安婦は売春婦、もしくはプロのキャンプ・フォロワーにすぎない」と、いわば結論が明記されている。
ヨーロッパでは、軍について商売するため売春婦がついていったようだが、それを『プロフェッショナル・キャンプ・フォロワー』と呼んでいる。公文書にも『戦場の売春婦』と書いているわけである。それだけではない。慰安婦の生活状況がかなり詳しく説明されている!・・・
✦ 生活状況の一部として、その稼ぎが記されている。平均して総計1500円稼ぎ、そのうちの半分はマスター(前借りをした売春宿の主人)に払うので、750円稼いでいる!・・・
✦ 当時の日本軍の上等兵の月給は10円ほど。兵士の75倍の高給を稼いでいたのが、韓国人慰安婦だった。兵士の75倍稼ぐのが本当に『奴隷』なのだろうか?・・・
以上、2014年2月23日に[東スポWeb]によって報道された記事は以下に記されている米国の公文書を基にしています。
Report No. 49: Japanese Prisoners of War
出典: ExordioThe second World War (1939-1945)
http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html
上記のサイト(ULR)を開き[Transrate]をクリックすれば公文書の全文は和訳されます。自動翻訳機能としては優れていますが、所々首を捻る和訳が散見できますが、充分に理解出来ますので私が和訳する必要が有りません!。興味がある方は是非ともこの《慰安婦は売春婦》の公文書を精査して頂ければ幸いです。
『京城日報』(1944年7月26日付)
「慰安婦至急大募集」
年齢 17歳以上23歳まで
勤め先 後方○○隊慰安部
月収 300円以上(前借3000円まで可)
『毎日新報』(1944年10月27日付)
「軍慰安婦急募集」
行先 ○○部隊慰安所
応募資格 年齢18歳以上30歳以内身体強健女性
募集期日 10月27日より11月8日
契約及待遇 本人面接後即時決定
募集人員 数十名
希望者 左記場所に至急問議の事
京城府鍾路区樂園町195 朝鮮旅館内光③2645(許氏)
1944年10月27日付け。「慰安婦を募集!月給300円以上!3000円まで借金が可
能!と明記されてある。
「文玉珠」さんという(自称)従軍慰安婦女
性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ、
2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしている。
千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べていますが、・・・現在の価値なら、4000万~5000万円程度の大金を彼女が(自称)性奴隷であった約3年間で貯めていたことが記されている。
文原玉珠名義で、合計12回の振込み(計26,145円)を行っていますが
当時、家が20~30件買えるほどの金額。
慰安所の入り口の写真
※筆者註 :談話の作成過程で、南朝鮮側から「元慰安婦の証言を認めてやってほしい」との要請があり、証言に沿った談話が出れば「過去の問題は決着し、未来志向の日韓関係を醸成できる」という示唆があった事で、・・・当時の日本政府は政治的判断として、検証もせずに一方的な証言をもとにした河野談話を発表した!と言われている。
この談話は事実からは程遠く虚構といえる物であったが、政治的な配慮で歴代政権は河野談話を破棄する事は出来ず、・・・その間、軍関与、慰安婦の強制連行が強調されれた談話が一人歩き始めた。
最初は幼児の如くの “よちよち歩き!” から、時空の推移と共に地響きを立てる程の凄まじい威圧感をもった歩みに変わり、・・・旧日本軍兵士の尊厳が汚され上、更に言われなき不当な汚名(拉致、強制連行、強姦、若き朝鮮人女性を性奴隷に貶める)を着せられて仕舞った。 日本国及び戦後生まれた戦争を知らない世代の上に、慰安婦問題は重苦しく圧し掛かり現在も尚苦しめている。
慰安婦問題は南朝鮮の対日本外交の、謝罪を求め更に莫大な戦後賠償金をせしめる最大の武器となり、日本の同盟国である米国内では南朝鮮人系の住民は本国の指令を、活動資金を得て、・・・米上下院議員に対して歪んだ歴史を振りかざして米国上下院議員に反日プロパガンダのロビー活動を狂気の如く仕掛けて日本国の尊厳を深く毀損している。
南朝鮮系の在米住民、市民団体が「VANK, Voluntary Agency Network of Korea」と一致団結して米上下院議員及び各州の地方政治家(南朝鮮系住民の多い選挙区)に的を絞り強力なロビー活動を展開した結果、・・・全米各地に慰安婦像、事実に反した不当な語句を刻んだ石碑が設置されたが、満足せず更に可能な限り数多く設置しようと企んでいる。
既に米国内に設置された慰安婦像、石碑は・・・
✦ グレンデール市/カルフォルニア州(慰安婦像、石碑)
✦ ハッケンサック/ニュージャージー州 バーゲン郡(石碑)
✦ アイゼンハワー・パーク/ニューヨーク州ナッソー郡(石碑)
✦ パリセイズ・パーク/ニュージャージー州 バーゲン郡(石碑)
✦ 郡庁舎敷地内/バージニア州フェアファクス郡(石碑)
などが数えられえる
何故に慰安婦に何らの関係のない米国でこのような異常な事が起きるか?・・・、 また何故に地方自治体の為政者が、日米韓の外交関係(日米同盟)を毀損して日米関係に皹が入る可能性が限りなく高い慰安婦像、石碑の設置を許すのか?。
加えて米連邦政府オバマ政権は無作為の限りで何らの手も打たずでは、日本国内ではオバマ政権、強いては米国民への不信感が日ごとに蓄積され、何れは反米運動が惹起される可能性が非常に高い。
例え反米運動が起きなくとも日本国民の心底には、同盟国である筈の米国のイメージ(印象)は悪化して、嘗ての信頼できる友人としての米国の好印象は薄れていく一方で、悲しい限りです。
何れにしても南朝鮮人が米国に移住⇒移民して市民権を取得した後も、新天地米国人の特性(親切!、明るい!、潔癖!、正義感、寛大!)を学ばずに相反する活動!、・・・母国での問題を引きずり他国(日本)を攻撃する政治的な活動をするのか?、また此れを地方の為政者達が傍観、無作為で南朝鮮系の住民を勝手気侭にさせているのか?、筆者に理解出来ません。
「反日プロパガンダ・ロビースト」がぶら下げた人参の甘さ(報酬金)に魅入られたのか?、米国人は変わり、・・・筆者が1963年に初渡米した以後、8年間に亘り米国で生活し、知己になり友人として50年経った今でも交流している方々とは同じ米国人か?と,余りの豹変振りに驚愕すると同時に此れは悪い意味での変貌であり、悲しい限りです。
目を閉じると在米期間中に仕事でデトロイト、ニューヨーク市、ナッシュビル市、ロス市の各都市で知り合った方々の明るい、人の良い、親切さが溢れ出た持て成しが今でも鮮やかに思い出され筆者の脳裏に浮かび上がります。これ等の思い出は筆者の宝物であり!・・・、此の宝物を米国上下院議員、地方自治体の為政者達及び在米南朝鮮系住民たちに汚されたくありません。
設置された慰安婦像、石碑の画像:
慰安婦を象徴する少女像に献花するエドワード・ロイス下院外交委員長=米カリフォルニア州グレンデール市で2014年1月31日、堀山明子撮影
IN MEMORY
IN REMEMBRANCE OF THE MORE THAN 200,000 WOMEN AND GIRLS WHO WERE ABDUCED FOR THE USE OF SEXIAL SLAVERY BY THE ARMED FORCES OF THE GOVERMENT OF IMPERIAL JAPAN 1930'S-1945 KNOWN TO THE WORLD AS "COMFORT WOMAEN". THEY SUFFERED HEINOUS CRIMES AGAINST HUMANITY THAT MUST NOT GO UNRECOGNIZED. THE GRAVE VIOLATIONS OF HUMAN DIGNITY THEY ENDURED WILL NOT BE FORGOTTEN.
これ等の慰安婦像や石碑が設置された後は、現地の米国人が多大に影響を受けて日本人に対して好ましくない印象を持つようになった。また児童たちも親に、あるいは慰安婦像や石碑を直接見て歪んだ感情を植えつけられて学校や路上、ファースト・フードレストランなどで日本人の児童たちへも悪口雑言、さらには唾を吐きかれる苛めが始まった。
苛めに遭った日系児童たちの、ある一人は罵倒され唾を吐き掛けられて為す術もなく家に帰り!、・・・両親に向かって私たちのお祖父ちゃんたちは石碑に刻まれている様な悪い事をしたのか!、泣いて両親に問うて、挙句は机に自分の頭を打ちつけて『僕の体の中には悪い血がながれている!』叫んだという。
親は石碑に刻まれている文面に反論する資料も持たず、悪いことには日本政府が問題解決するには米国との軋轢を惹起する事を恐れ静観しているだけで、河野談話を見直し又は破棄もせずでは、・・・我が子に石碑の文面は嘘である!との説明も出来ず、呆然と立ち尽くすだけだった。
「慰安婦は売春婦」裏付ける米公文書の存在:
東京スポーツWeb( 2014年2月23日)
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/237461/
✦ 慰安婦に関する最も重要な事実を記載してあるものとしては『アメリカの公文書』が存在する。当時ビルマのミートキナを制圧した米軍が捕らえた韓国人慰安婦20人に尋問した記録をまとめたもので、・・・証拠価値が高いのは、直接の尋問記録であり、また別に訴訟のためではないから、意図的な誘導尋問をしているわけではなく、客観性がかなり高い!・・・
✦ 米公文書に「慰安婦は売春婦、もしくはプロのキャンプ・フォロワーにすぎない」と、いわば結論が明記されている。
ヨーロッパでは、軍について商売するため売春婦がついていったようだが、それを『プロフェッショナル・キャンプ・フォロワー』と呼んでいる。公文書にも『戦場の売春婦』と書いているわけである。それだけではない。慰安婦の生活状況がかなり詳しく説明されている!・・・
✦ 生活状況の一部として、その稼ぎが記されている。平均して総計1500円稼ぎ、そのうちの半分はマスター(前借りをした売春宿の主人)に払うので、750円稼いでいる!・・・
✦ 当時の日本軍の上等兵の月給は10円ほど。兵士の75倍の高給を稼いでいたのが、韓国人慰安婦だった。兵士の75倍稼ぐのが本当に『奴隷』なのだろうか?・・・
以上、2014年2月23日に[東スポWeb]によって報道された記事は以下に記されている米国の公文書を基にしています。
Report No. 49: Japanese Prisoners of War
Interrogation on Prostitution
UNITED STATES
OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to
U.S. Army Forces
India-Burma Theater
APO 689
OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to
U.S. Army Forces
India-Burma Theater
APO 689
Japanese Prisoner
of War Interrogation Report No. 49. |
Place interrogated: Ledo Stockade
Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944 Date of Report: October 1, 1944 By: T/3 Alex Yorichi |
Prisoners: 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture: August 10, 1944 Date of Arrival: August 15, 1944 at Stockade |
PREFACE
This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.
The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.
A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.
RECRUITING;
Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.
The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced ...
Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.
Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.
PERSONALITY;
The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman." She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.
LIVING AND WORKING CONDITIONS;
In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.
While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.
PRIOR SYSTEM;
The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows:
1. Soldiers
|
10 AM to 5 PM
|
1.50 yen
|
20 to 30 minutes
|
2. NCOs
|
5 PM to 9 PM
|
3.00 yen
|
30 to 40 minutes
|
3. Officers
|
9 PM to 12 PM
|
5.00 yen
|
30 to 40 minutes
|
These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.
SCHEDULES;
The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying. In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.
Sunday
|
18th Div. Hdqs. Staff
|
Monday
|
Cavalry
|
Tuesday
|
Engineers
|
Wednesday
|
Day off and weekly physical exam.
|
Thursday
|
Medics
|
Friday
|
Mountain artillery
|
Saturday
|
Transport
|
Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.
Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.
PAY AND LIVING CONDITIONS;
The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract. This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.
In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.
The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.
REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;
In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitué of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.
SOLDIERS REACTIONS;
The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.
All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."
The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".
MILITARY SITUATION;
"In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.
"Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."
Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.
It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.
RETREAT AND CAPTURE;
The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three-hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockade where the interrogation which form the basis of this report took place.
REQUESTS
None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast."
They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capturein any droppings planned for Korea.
http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html
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『京城日報』(1944年7月26日付)
「慰安婦至急大募集」
年齢 17歳以上23歳まで
勤め先 後方○○隊慰安部
月収 300円以上(前借3000円まで可)
『毎日新報』(1944年10月27日付)
「軍慰安婦急募集」
行先 ○○部隊慰安所
応募資格 年齢18歳以上30歳以内身体強健女性
募集期日 10月27日より11月8日
契約及待遇 本人面接後即時決定
募集人員 数十名
希望者 左記場所に至急問議の事
京城府鍾路区樂園町195 朝鮮旅館内光③2645(許氏)
1944年10月27日付け。「慰安婦を募集!月給300円以上!3000円まで借金が可
能!と明記されてある。
「文玉珠」さんという(自称)従軍慰安婦女
性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ、
2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしている。
千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べていますが、・・・現在の価値なら、4000万~5000万円程度の大金を彼女が(自称)性奴隷であった約3年間で貯めていたことが記されている。
文原玉珠名義で、合計12回の振込み(計26,145円)を行っていますが
当時、家が20~30件買えるほどの金額。
慰安所の入り口の写真