2015年10月29日木曜日

大和心⟹三保の松原 天女の羽衣祭り

先日!〜、長年のブログ友である方のブログを訪れ、アップされていた更新記事『三保の松原』・・・

の中に記載されていた『エレーヌの碑』に感銘して、興味をそそられて、ネットを散策して得られた結果を以下に記載致します。

羽衣 (能):
 能楽 作品のひとつ。室町時代における上演記録は多く、現代まで人気のある演目として上演されている。

あらすじ!〜
三保の浦で海に漕ぎ出していた漁師の白龍たちは、春になった美しい三保の松原の景色を嘆賞しつつ、その三保の松原に戻ってくる。すると虚空より花が降り音楽が聞こえ妙なる香りが立ちこめる。これはただ事ではないと思っていると、松に美しい衣がかかっている。白龍はその衣を手に取って持ち帰ろうとしたが、天女が現れ、それは私の衣ですので返してほしいと告げる。
 白龍は、天人の物であるなら国の宝として地上においておくべきだと言い戻そうとしない。天女は衣が無ければ飛ぶ事もできず、天上に帰る事ができないので、そういわずに返してほしいと言う。しかし白龍は、ますます返そうとせず、立ち去ろうとする。
 天女は、天上界の事を思い出して哀しみ、なげいている。白龍は、その姿を見て痛々しく思い、衣を天女に返す事を告げる。ただし、天女の舞を舞って欲しいという。

 天女は喜び、舞を舞うことを約束するが、衣を着ないと舞えないので先に衣を返して欲しいと告げる。白龍は、先に衣を返せば舞を舞わずに帰るつもりであろうと天女に言うが、天女から、そのような疑いは人間界のものであり、天には偽りは無いと諭される。白龍は、恥ずかしい事を行ってしまったと思い、衣を天女に返した。

 天女は衣を着て舞い始めるが、その姿は雨に濡れた花のような美しさであった。月宮殿では舞の奉仕をする乙女の一人である事を明し、この舞が、後世の東遊びの駿河舞になることを教える。天女は、三保の松原の春景色が天上界のようであるといい、その美しさを讃え、「君が代は天の羽衣まれに来て撫づとも尽きぬ巌ならなむと詠まれた歌のようだと歌い舞っていると、それに合わせて、笙、笛、琴の音なども聞こえてくる。

 その舞姿は、雪が舞うような美しさであった。そうやって、東遊びの舞の曲を次々と舞い、国土の繁栄を祈念し、様々な宝物を降らし国土に恵みを施しながら、十五夜の空に輝く満月のようになって富士山の高嶺に昇ってゆき、天空の霞の中に姿を消してゆく。
(出典:ウィキペディア)



羽衣まつり
エレーヌ・ジュグラリス(1916-1951):
  

エレーヌ・ジュグラリスは、1916年4月23日、フランスのブルターニュ地方キャンぺールに生まれました。医師である父:シモン・オブラニアンが、現代舞踊の母と呼ばれるイサドラ・ダンカン(1877-1927)の主治医であったことから、エレーヌは幼い時から彼女の子供たちと一緒に暮らし、舞踊の手ほどきを受けました。イサドラ・ダンカンの影響を受けた舞踊家として成長したエレーヌが、西洋の舞踊にあき足らず、もっと優美なもの・叙情的なものを追求した結果「これこそ舞踊芸術の極致」としてたどりついたのが、日本の能でした。エレーヌは、特に西洋に数多く伝わる「白鳥伝説」と通じ、ヨーロッパの人々にも分かりやすい「羽衣」に心惹かれ、その上演に情熱を傾けました。フランスに日本の大使館も領事館もない時代、能の研究・調査は困難を極めましたが、エレーヌは自分の追及する「羽衣」を作り上げていったのです。 1949年3月、ギメ美術館のホールでの初演は大成功をおさめ、各地で上演を続けましたが、結果的にこの成功はさらなる情熱を注がせただけでなく、巨額の費用を投じさせ、さらにはエレーヌ自身の体をも燃え尽きさせてしまいました。 1949年6月、アトリエ劇場での公演中、「羽衣」の衣装をまとったまま舞台で倒れ病院へ運ばれました。2年後の1951年7月11日、ついに舞台へ帰ることなく、エレーヌは35歳という若さでこの世を去りました。エレーヌが最期まで憧れを抱き続けていたのは、能『羽衣』の舞台、三保の松原でした。 (羽衣まつり20周年記念誌「はごろも」引用)


   羽衣の衣装を纏い能『羽衣』を舞う在りし日のエレーヌ・ジュグラリス

エレーヌ夫人顕彰式の由来:

「私の代わりに、三保を訪ねてください」 このエレーヌ夫人の遺志を果たすため夫のマルセル氏が、遺髪と手作りの能装束を手に三保を訪れたのは、昭和26年(1951)11月のことでした。戦後、自信を失っていた人たちにとって、遠くフランスの地で、日本の伝統芸能である能「羽衣」の上演に生涯を捧げた舞踊家の存在は驚きであり、非常に勇気づけられることでした。エレーヌ夫人の羽衣と三保を愛する心と、その生涯に感動した人々は、彼女の功績の顕彰と、日仏文化交流の記念に記念碑の建立を計画しました。地元、三保をはじめ、非常に多くの人々の協力により、昭和27年(1952)11月1日、「羽衣の碑」(エレーヌの碑)は完成しました。碑には朝倉京子氏作による能面を見つめるエレーヌ夫人のレリーフがはめ込まれ、マルセル・ジュグラリス氏が亡き妻に贈った6行の詩が刻まれています。



Hagoromonohi

Le vent des vagues       三保の浦

De la plage de Miho       波渡る風 語るなり

Parle de celle dont à Paris,  パリにて「羽衣」に

Hagoromo a emporte la vie.  いのちささげし わが妻のこと

En l'écoutant mes jours    風きけば 

Pourront s'énfuir.        わが日々の すぎさりゆくも

H.Marcel Giuglaris        心安けし 
✦ H・マルセル・ジュグラリス(有永弘人訳)


建立除幕式では、在日フランス大使様をはじめ、浜辺を埋め尽くすほどの人々が参列する中、梅若万三郎師一門が「羽衣」を上演しました。(羽衣まつり20周年記念誌「はごろも」より)その後は、羽車神社(御穂神社離宮)の例祭時に、氏子の人々によってエレーヌの顕彰が行われてきましたが、昭和59年からフランスフェア羽衣まつり(現:羽衣まつり)が開催され、その中心事業の一つとして「エレーヌ祭り(現:エレーヌ夫人顕彰式)」が行われるようになり、現在に至っています。なお、マルセル氏が携えてきたエレーヌ夫人の遺髪は「羽衣の碑」に収められ、能装束や楽譜などの遺品は清水中央図書館のメモリアルコーナーで展示されています。



羽衣の松:
天女が羽衣をかけたとされる羽衣伝説で有名な松です。
この松は御穂神社のご神体で、祭神の三穂津彦命・三穂津姫命が降臨する際のよりしろ(目印)とされており、およそ500mの松並木の参道「神の道」を経て御穂神社へと通じています。


初代の羽衣の松は宝永4年(1707年)の富士宝永山噴火の際に海中に没したと伝わっていますが、二代目の羽衣の松も樹齢650年を越えて衰弱が激しく、現在は三代目の元気な松に世代交代をしました。松のとなりには同社の離宮・羽車神社があります。
羽衣の松石碑 毎年元旦の朝には大勢の人々が集い、伊豆半島の山々から昇る初日の出を拝みます。


昭和26年(1951年)11月!〜、❝私の代わりに、三保を訪ねてください!❞・・・ このエレーヌ夫人の遺志を果たすため夫のマルセル氏が、遺髪と手作りの能装束を手に三保を訪れました。

日本の三保の松原を焦がれつも訪れる機会が無く35歳の若さで、しかも天女の衣装を身につけて上演(1949年6月)していた最中に突然に倒れた後の病状(白血病)は悪化の一途を辿り、平癒はならずに夭折したフランスの舞踊家・エレーヌ・ジュグラリスの願いは夫のマルセル氏が三保を訪問した事で叶えられた。


大東亜戦争に敗れて腑抜け、蝉の抜け殻のようになり、日本人が自信喪失となり打ちひしがれていた時代に、・・・・日本の伝統芸の能(羽衣)に魅入られて、情報を集めるのが困難だったのにも拘らず『能(羽衣)』に関する資料を集めてフランス版・羽衣の舞を完成させた。
上演は大成功を収め日本国の伝統芸が欧州に広く知れ渡った事は、自信喪失に陥っていた日本人に誇りを回復させ明るい希望を灯す効果があった。

天女のように天空に舞い上がったエレーヌ・ジュグラリスの願いと、夫のマルセル氏が三保を訪れた事を知った地元の方々や日本全国から有志の方々の協力で『エレーヌの碑』が、昭和27年(1952)11月1日に完成した。

大和心が『エレーヌの碑』を創造して設置する!・・・
心から日本の伝統芸の能に魅入られてフランスで能『羽衣』を舞ったエレーヌ・ジュグラリス!・・・
日本人の感性とエレーヌ・ジュグラリスの感性が見事に昇華した感銘深い逸話です。

翻って支那や南鮮人が特アの醜い感性で造り、・・・米国や南朝鮮内のアチラコチラで設置している、慰安婦像や石碑の薄気味悪さとは大違いで爽やかさが横溢している『エレーヌの碑』と言えるでしょう。
大和人の感性と特亜人の感性の対比が鮮やかに浮き彫りにされるようです。