2014年8月16日土曜日

妄想歴史に骨の髄まで侵され、無知蒙昧の衣装を纏い国際舞台で踊り狂う支那人!・・・


沖縄県・石垣島に建立された唐人墓【拡大】

【沖縄が危ない】石垣島に存在する「おもてなし」の歴史と中国の厚顔無恥

現在の困難な日中関係を考えるうえで、中国人にぜひ知ってもらいたい中国と石垣市の関わりがある。その
 1852年、苦力(クーリー)と呼ばれる中国人奴隷約400人を乗せた米国の奴隷貿易船、ロバート・バウン号が石垣島沖で座礁した。中国人らは虐待に耐えかねて船長らを殺害し、石垣島に逃げ込んだのだ。

 報告を受けた米・英国船が石垣島沖に現れ、兵士らが上陸し中国人を捜索した。中国人128人が兵士に殺害されたり、病死、自殺したりした。

 石垣島の人々は中国人を匿い、食糧を与えた。死亡者には墓を建立し、丁重に埋葬した。最終的に、生存者172人が琉球政府の船で福建省に護送された。

 中国風の豪華な建築物である唐人墓は128人の霊を慰めるため、石垣市が点在していた墓を集め、1972年に建立した。現在は観光名所になり、市民は「日中友好のシンボル」と呼ぶ。

 しかし、現在の中国政府から謝意が示されたことは一度もない。建立に協力したのは台湾関係者だ。

 もう1つ、エピソードがある。

1919年、中国人31人を乗せ、福建省を出港した漁船が嵐で尖閣諸島・魚釣島に漂着した。当時、島にあったかつお節工場の労働者たちが中国人を救助し、石垣島に送った。石垣島の人たちも彼らを手厚く保護し、全員を帰国させた。

中国駐長崎領事は翌年、当時の石垣村長・豊川善佐や、かつお節工場の経営者・古賀善次らに感謝状を贈った。感謝状には尖閣諸島を「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記している。中国が尖閣を日本領と認識していた証拠となる感謝状は現在、石垣市の文化財に指定され、厳重に保管されている。

 こうした交流の歴史があれば、通常は二国間の友好親善は推進されるはずだ。ところが、石垣の先人たちが中国人を温かく迎えたお返しに、現在の中国がやっていることといえば、尖閣周辺で連日、公船を航行させて「(尖閣は)中国固有の領土だ」と叫び、石垣の領土を略奪しようとする行為である。恩をあだで返すとはこのことだ。

 日本としては石垣市の「おもてなし」の歴史を国際社会にも発信し、中国の厚顔無恥を広く訴える必要もあるだろう。

 ただ、中国政府は恐らくこうした歴史を一般の国民に隠している。中国に自由の風が吹くようになれば、国民も「正しい歴史」を知ることになる。その日こそ、石垣島の厚い人情が、三たび日中友好の架け橋となるはずだ。

 ■仲新城誠(なかあらしろ・まこと) 1973年、沖縄県石垣市生まれ。琉球大学卒業後、99年に石垣島を拠点する地方紙「八重山日報社」に入社。2010年、同社編集長に就任。同県の大手メディアが、イデオロギー色の強い報道を続けるなか、現場主義の中立的な取材・報道を心がけている。著書に「国境の島の『反日』教科書キャンペーン」(産経新聞出版)など。
産経ニュース2014.08.15
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140815/dms1408150830010-n1.htm

                                          

筆者考:



◼︎【ロバートバウン号事件】:

咸豊2年(1852年)、中国アモイからカリフォルニア州へ航行中のアメリカの奴隷貿易船、ロバート・バウン号内で、400人の中国人を裸にし、辮髪を切り落とし、CやPの焼き鏝を胸に押し当て、売り物にならない病気持ちは海に突き落として鮫に喰わせたところ、奴隷にされたことを知った中国人は暴動を起こした。
 苦力は米国人船長と船員を殺して船を操縦したが、2月19日に石垣島の崎枝村沖合で座礁し、380人の中国人苦力が上陸した[2]。事情を知らない八重山の役人たちは崎枝村の赤崎に収容所を設けた後、監視しやすい富崎に移して収容した。

その後、離礁したバウン号の報告を受けてイギリス船2隻が石垣島に来航し、3月16日に富崎の収容所を砲撃し、さらに武装した兵士200人以上が上陸して逃走した苦力を射殺・捕縛して、白人に抵抗した見せしめにその場で百人近くを吊るし、3月23日に出航した。また、4月4日にはアメリカ船1隻が来航し、兵士100人以上が上陸・探索を行ない、4月12日に引上げた。

 捕縛を免れた中国人は琉球王国に保護されたが、収容所の衛生は悪く、翌年9月29日に中国に送還された生存者は172名で、この間に病死、自殺、あるいは行方不明になった者は128名に上った。これを弔った三百唐人墓とよばれる古い石積みの墓が近年まで付近に点在しており、陶製の墓碑が八重山博物館に収蔵されている。


◼︎【支那漁船嵐で難破】:


1919年、中国人31人を乗せ、福建省を出港した漁船が嵐で尖閣諸島・魚釣島に漂着した。当時、島にあったかつお節工場の労働者たちが中国人を救助し、石垣島に送った。石垣島の人たちも彼らを手厚く保護し、全員を帰国させた。

此の二つの支那人の『苦力の反乱事件』、『漁船難破事故』で沖縄・石垣島の島民が支那人に対して示した暖かい持て成しは風化して仕舞っている。
尤も近代支那人には元来、他国から受けた持て成しに対しては、持ち前の中華思想(夜郎自大)が邪魔をして素直に感謝する性情は持ち合わせてはおらず、風化は事件直後に始まった!ち言っても決して過言でないでしょう。

一応、中国駐長崎領事は翌年、当時の石垣村長・豊川善佐や、かつお節工場の経営者・古賀善次らに感謝状を贈った。感謝状には尖閣諸島を「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記している。中国が尖閣を日本領と認識していた証拠となる感謝状は現在、石垣市の文化財に指定され、厳重に保管されている❯・・・この感謝状は当時の日本と支那の力関係から長崎註日・中華民国領事の裁量で出されたもの、国際的な辞令であり、決して支那人の感謝の気持ではないでしょう。


◼︎【エルトゥールル号遭難事件】:

1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件である。この事件は、日本とトルコの友好関係の始まりと考えられている。

現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。

➤ 救難活動・・・

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当てを行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知った。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。

此の海難事故以来125年近くも過ぎた今なおトルコは日本国、国民への感謝の気持ちを決して忘れず、支那人や朝鮮半島人の如くに❝恩を仇で返す!❞ことはしません。


◼︎【1985年(昭和60年)3月18日、イラン・イラク戦争の真っ只中!・・・サダム・フセイ3月17日の午後【今より48時間後からイランの上空を通過する全ての航空機を無差別に撃墜する】と世界に向けて発信した】:
 
当時イラン在住の日本人は技術者や商社関係の家族等約1000名!・・・限られた時間はたったの48時間。なんとかイラン国外へ脱出した人を除いて、最終的に300人の日本人が空港に取り残こされて仕舞った。
この緊急事態に日本政府は、救援の派遣を手配しようとしましたが日本からは航空機で12時間もの距離であり、・・・帰路の安全が保証されない事を理由に日本航空はこの申し入れを拒否。

  多国の人々はそれぞれ自国の臨時便で次々と脱出して、・・・どの国も自国民を最優先する為、日本人を運んでくれる飛行機は皆無。

  結局、自国の飛行機に見捨てられた日本人だけが取り残されてしまい、・・・このまま戦火の渦巻くこの地に取り残されれば、もう生きて再び祖国の土を踏む事は出来ないか?の恐怖感に包まれていた。
万事休す!⇔もうダメか!❞ ・・・誰もが絶望にうちひしがれ、天を仰いだその時です。大空の彼方から飛行機が現れました。
一機そして又一機、滑り込む様にテヘランの空港に着陸したのはトルコの航空機だった。

日本の皆さんどうぞ乗って下さい。私達はあなた方を迎えに来たのです❞・・・こうしてトルコの航空機は215名の日本人を乗せてテヘランを飛び立つ・・・間一髪、全ての航空機を撃墜すると宣告された時刻まで、僅か75分前だった。

此の様に昔、自国の人間が遭難した時に受けた持て成しを、120年以上も忘れずに日本国、国民の温情に応えたトルコ政府の格調高い行動は未だに記憶に新しい!。

翻って支那人の品性の卑しさは余りのも凄まじく表現する語彙が見当たりません!❞。




産經新聞記事の最後の下り!・・・

中国政府は恐らくこうした歴史を一般の国民に隠している。中国に自由の風が吹くようになれば、国民も「正しい歴史」を知ることになる。その日こそ、石垣島の厚い人情が、三たび日中友好の架け橋となるはずだ】・・・

❝甘い、甘い!、支那に自由の風が吹く!❞・・・
其れには共産党政権が崩壊しなければならず、現在のように欧米、日本、豪州や他の諸外国が欲の皮が突っ張り、支那と交易を持続している間は絶対に支那は崩壊しないでしょう。

❝支那に自由のかぜが吹く!❞・・・夢のまた夢と成る様です。

狂惨党支那の政権体制を支えているのは自由先進諸国とはこれ如何に!・・・駄洒落にも成りません。


0 件のコメント: