信念貫いた五輪の名花 東京を愛したチャスラフスカさん
朝日新聞デジタル(2016年8月31)
プラハで東京五輪の思い出を語るベラ・チャスラフスカさん=2013年12月
チャスラフスカさんに最後に会ったのは2カ月前のことだった。プラハのカフェで2年半ぶりに再会した彼女は、20キロ以上もやせていた。それでも、温かい笑顔とはきはきとした語り口調は変わらなかった。
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がん患うチャスラフスカさん 「雲の上から手を振るわ」
だから、残された命が短いと聞かされても信じられなかった。2020年東京五輪の開催が決まった時には自国のことのように喜んでいた。病を乗り越え、きっと見にくるだろうと思った。だが、彼女が続けたのは「東京五輪は雲の上から日本の皆さんに手を振りますね」という言葉だった。
演技に魅了された日本人が彼女を愛したように、彼女も日本を愛していた。パソコンのメールアドレスは「sakura1964@……」。うつ病と闘っている間、日本からの取材は受けなかった。後に「薬の副作用でむくんだ顔を日本の皆さんに見せたくなかった」と明かした。
ログイン前の続き64年東京五輪代表で彼女と親交のあった中村多仁子さん(73)は「ベラにとって東京五輪は特別だった。選手として、女性として、最も輝いていた時期ですから」と思いやった。
苦難の多い人生だったが、信念は曲げなかった。「プラハの春」の母国がソ連軍の侵攻を受けた直後のメキシコ五輪では、ソ連の選手が金メダルを授与されている間、顔を背けて抗議した。「2千語宣言」への署名で迫害を受け、職を失っても、反体制の立場を覆さなかった。
最後に訪ねた時も、街を歩けばサインを求められる有名人だった。それでも、「恥ずべきことだから」と派手な生活はしなかった。講演やイベントの出演料を要求することもなく、国から与えられた一軒家を人に貸して、六畳ほどの部屋一つのアパートに住み、家賃収入と年金で暮らしていた。数々のメダルはベッドの下の箱の中だった。
最後の最後まで、信念を貫いた人生だった。