2013年12月4日水曜日

【永久にさようなら反日・性悪・極道⇔特亜】・・・こんにちわ!、親日国家の皆様・・・

【中韓サヨナラ…世界の親日国】ミャンマー独立を支援した日本人に勲章授与 誇るべき過去の絆

ミャンマーは今、最も急速に発展しているアジアの国である。かつての軍事政権は民主化を進めると同時に、鎖国から開国へ、親中から親米へと大きな方針転換を行った。ミャンマー(旧国名ビルマ)は、第2次世界大戦中に独立して日本の同盟国となり、昭和18(1943)年11月の大東亜会議(有色人種国初のサミット)にも参加している。

 独立時のリーダーは、バー・モウ首相だ。彼は英ケンブリッジ大学で弁護士資格を取り、仏ボルドー大学で博士号を得た、当時の最高のインテリだった。彼は1937年、英国の直轄植民地だったビルマの首相となるが、独立志向を強め、やがて日本と政治的に連携する道を選ぶ。

 バー・モウ首相は、後に「ビルマ建国の父」と呼ばれるアウン・サンや、大統領となるネ・ウィンら30人の独立志士をビルマから脱出させ、日本軍の指導に委ねた。彼らを教育したのは、鈴木敬司大佐率いる「南機関」と称する、大本営直属の対ビルマ秘密工作機関だった。30人は海南島で猛特訓を受け、ビルマ独立義勇軍(BIA)を編成、41年12月8日の開戦と同時に、日本軍と対英戦を開始した。

 日本軍は怒涛(どとう)の勢いで、たった5カ月でビルマ全土を制圧した。日本軍とともに進軍するBIAは行く先々で大歓迎を受けた。青年たちはBIAへ競うように志願し、軍勢はたちまち膨れ上がっていった。武器が不足し、竹やりで間に合わさなければならない程だった。

 43年8月1日、ビルマは独立を宣言した。英米両国に宣戦を布告し、日本との同盟条約を締結した。首相となったバー・モウは同年11月の大東亜会議にも出席した。大戦末期、日本の敗色が濃くなると、バー・モウは裏切らなかったが、陸相だったアウン・サンは日本を裏切り、親英の旗を掲げる。アウン・サンは内紛で暗殺されるが、ビルマは難しい英国との外交交渉を乗り越え、戦後の48年に英国から再独立する。

 毀誉褒貶の激しいアウン・サンであったが、暗殺されたことにより、国民的英雄となった。民主化運動のリーダー、アウン・サン・スーチー女史は、このアウン・サン将軍の娘である。

 81年、ビルマ政府は独立に貢献した鈴木大佐を始めとする7人の日本人に、国家最高の栄誉「アウン・サン勲章」を授与し、その功績をたたえた。今、日本企業はミャンマーに殺到しているが、こういった誇るべき過去の絆を忘れてほしくはないものである。

 フランスのドゴール大統領は「日本が英国の東洋支配の拠点シンガポールを陥落させたときに、西洋の500年に及ぶ世界覇権は終焉(しゅうえん)したのだ」と述懐している。英国の歴史家、トインビーも、日本が西洋白人優越の時代に終止符を打った事実を認めている。

 ■藤井厳喜(ふじい・げんき) 国際政治学者。1952年、東京都生まれ。早大政経学部卒業後、米ハーバード大学大学院で政治学博士課程を修了。ハーバード大学国際問題研究所・日米関係プログラム研究員などを経て帰国。テレビやラジオで活躍する一方、銀行や証券会社の顧問、明治大学などで教鞭をとる。現在、拓殖大学客員教授。近著に「米中新冷戦、どうする日本」(PHP研究所)、「アングラマネー タックスヘイブンから見た世界経済入門」(幻冬舎新書)。

ZakZak 2013.09.02)



                                               

筆者考:

今日はZakZak、2013年 9月23日の記事を基にして、先の大東亜戦争で!、・・・植民地であり、列強に欲しい侭に資源を簒奪され、同時に【人に非ずの位置に貶めされていたアジアの国々!】の独立に大きく貢献した偉大なる日本国の先人の方々を取り上げました。


81年、ビルマ政府は独立に貢献した鈴木大佐を始めとする7人の日本人に、国家最高の栄誉「アウン・サン勲章」を授与し、その功績をたたえた。今、日本企業はミャンマーに殺到しているが、こういった誇るべき過去の絆を忘れてほしくはないものである。


      

             鈴木敬二
           


鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年明治30年)2月6日 - 1967年昭和42年)9月20日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在した日本軍特務機関南機関」の機関長。

経歴:
静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校を経て、1918年大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1929年昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、翌月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。
1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となる。以後、参謀本部員、参謀本部付仰付(フィリピン潜入)を務める。1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に昇進。陸大教官を経て、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に進級し参謀本部員に就任。1939年(昭和14年)1月、大本営第10課長を兼務し、同年8月、歩兵大佐に昇進。同年12月、参謀本部付として蘭印駐在となった。
1940年(昭和15年)6月から10月まで、「南益世」名でビルマに出張した。1941年(昭和16年)2月、南機関長となりバンコクに駐在し、同年11月、南方軍総司令部付としてビルマ工作に従事。1942年(昭和17年)6月、留守近衛師団司令部付に発令され、翌月、ラングーンを離れた。同年8月、第7師団参謀長に就任。
1943年(昭和18年)6月、陸軍運輸部付(東京出張所長)となる。同年8月、陸軍少将に進級。以後、第2船舶輸送地区隊長、第27軍参謀長を歴任。1945年(昭和20年)2月、第5船舶輸送司令官に就任。同年4月、札幌地区鉄道司令官を兼務し終戦を迎えた。同年12月、予備役に編入された。敗戦後、英軍からBC級戦犯に指定され、ビルマに連行されたが、アウンサン将軍の恩赦により釈放された。

Republic of the Union of Myanmar
ミャンマー連邦共和国
ミャンマー(ビルマ)のかつての首都ヤンゴン中心部に存在する寺院シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda)(上写真)。境内は、高さ約100メートルもある黄金のストゥーパ(仏塔・塔婆)を中心に、60余りの仏塔や廟(びょう)が林立する。
イギリスが1824年にビルマへ侵攻した際、シュエダゴン・パゴダは街を見渡し軍令を下す要塞とみなし、ヤンゴン占拠時には重要拠点として直ちに奪取・占領したという。

イギリスに滅ぼされたビルマ王朝

ビルマ王朝はイギリスに1885年に滅ぼされ、翌年にイギリス領インドに併合された。併合後はイスラム教徒のインド人や華僑が流入、周辺の民族はキリスト教に改宗させて、ビルマは多民族多宗教国家となり、ビルマ人は最下層の農奴とされた。
イギリスに対するビルマ人の初期の独立運動は、第一次世界大戦(1914年)から世界恐慌(1929年)の頃にかけて、若い知識層を中心に広がっていった。1930年には農民らによる比較的大規模な武装蜂起が生じたが、翌年半ばには鎮圧されてしまう。
ビルマで本格的な独立運動が起こるのは、日本軍が援蒋ルートの遮断などを目的として南進した1941年以降のビルマ戦役以降のこと。日本軍のある将校とビルマの英雄アウンサン将軍の関係を中心に、ビルマ独立までの道のりについて簡単に触れてみたい。

ビルマ独立運動 共闘するアウンサンと鈴木敬司大佐

東南アジアは列強の植民地

当時の東南アジア諸国は、イギリス・フランス・オランダによる植民地として奴隷的な支配を受けていた。
イギリスはタイ(右挿絵の黄色い領域)の西側とマレー半島、フランスは東側の諸国を、オランダインドネシアをそれぞれ植民地化していた。
タイが植民地化を免れたのは、フランス・イギリス両国の緩衝地帯(バッファーゾーン)としての意味合いが強い。
後にフランス本国がドイツに侵攻され弱体化すると、イギリスはタイへ侵攻を開始する。詳しくはタイ国歌のページで。

アウンサン日本へ 「30人の同志」

1940年当時、中国と日中戦争の最中にあった日本は、英米等から中国への軍事物資の輸送ルート(援蒋ルート)の一つ「ビルマルート」遮断のため、ビルマ国内の独立派勢力と秘密裏に提携し協力関係を深めていた。
1940年6月、鈴木敬司大佐は新聞記者「南益世」の偽名でビルマに入ると、イギリスに指名手配され亡命中のアウンサン(スーチー氏の父)やラミヤンらを日本へ招き、鈴木の故郷である静岡県浜松市にかくまった。
右写真:アウンサン(タキン・オンサン)
アウンサン来日が契機となり、1941年2月1日、鈴木大佐を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が発足。ビルマ独立運動家の青年30名をアウンサンらの手引きで密かに国外へ脱出させ、独立戦争に必要な軍事訓練を施すと、彼らに武器、資金を与えてビルマへ再潜入させた。この30名が、後にビルマ独立の伝説となる「30人の同志」である。

ビルマ独立義勇軍 誕生

1941年12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始されると、同月28日、鈴木大佐を司令官とするビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army / BIA)が設立された。メンバーは「30人の同志」たちのほか日本人将校・義勇兵らも加わり、アウンサンは高級参謀としてその任に就いた。
写真:鈴木大佐(最前列の右から3人目)とアウンサンら「30人の同志」
ビルマ独立義勇軍は、占領地各地で志願兵を募り、軍事訓練を施しつつ進軍すると、設立当初は200人にも満たなかった兵力は、ビルマ攻略戦終結時には3万人近くに達していた。1942年7月にはビルマ防衛軍(BDA)が創設され、ビルマ独立義勇軍および鈴木大佐率いる「南機関」は解散となった。

ビルマ独立 国防軍創設へ

1943年8月1日、バー・モウを首相とするビルマ国建国が宣言され、ビルマは名目的な独立を果たした。
写真:ラングーン市内を行軍する鈴木大佐ら
ビルマ防衛軍は国軍「ビルマ国民軍(BNA)」に移行し、アウンサンが国防大臣に就任。後任の軍司令官にはネ・ウィン大佐(後のビルマ大統領)が就くなど、独立義勇軍初期からの面々が要職を占めた。

イギリスによる再支配 独立を求めるアウンサン

太平洋戦争終結後、イギリスにより再びビルマの植民地支配が始まった。連合国側は大戦中、ビルマ独立をエサに抗日運動を裏で支援していたが、終戦後にビルマを独立させるつもりは最初からまったくなかったのだ。
1946年1月、アウンサンは軍を去った後、イギリスに対してビルマの自治を強く要求し続けた。英領ビルマ政府の要職も用意されたが、アウンサンは以前として反イギリス・独立主義者であり続けたため、イギリスからの反感は次第に高まっていった。

ミャンマー誕生 アウンサンの夢が現実に

ついに1947年1月27日、長きにわたる地道な交渉の結果、アウンサンはイギリス首相クレメント・アトリー(右写真)と「アウンサン・アトリー協定(Aung San-Attlee Treaty)」に調印。この協定により、1年以内のビルマ完全独立が約束された。
1948年1月4日、同協定に従い、ビルマは「ミャンマー連邦共和国」として名実ともにイギリスからの独立を果たした。しかし、アウンサンが長年夢見たその日を、彼自身が生きて迎えることはできなかった。

アウンサン暗殺 黒幕はイギリス?

念願の独立達成まで約半年となった1947年7月19日、政敵であり前首相のウーソー(U Saw)(ウ・ソオ)ら一味に襲撃され、アウンサンは他の独立派6人の閣僚とともに悲劇の最期を遂げた。享年32歳。
アウンサン暗殺の黒幕はイギリスであり、ウーソーはその表の犯人としてうまく利用されたとの見解が有力に唱えられている。実際、犯行後にウーソーが逮捕・起訴された直後、イギリス陸軍将校のデイヴィッド・ヴィヴィアン(David Vivian)が武器横流しの罪で懲役5年の刑を受けている。イギリス将校が誰に指示されたのか、その背後関係については現在でも謎に包まれている。

鈴木敬司大佐に贈られたメッセージ

終戦後、「南機関」を率いた鈴木敬司大佐が見せしめのためにビルマに連行され、ラングーン刑務所に収監された。
BC級戦犯として裁判にかけられそうになったとき、アウンサンは「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛抗議し、鈴木氏を釈放させることに成功したという。
南機関から「30人の同志(三十人の志士)」として過酷な軍事訓練を受けた一人のネウィン(Ne Win)は、 1962年から1981年まで第4代ビルマ連邦大統領となり、1966年に鈴木氏らをビルマに招待。1981年には、南機関の関係者6人にビルマ最高の栄誉「アウンサンの旗」勲章を授与し、ビルマ独立の礎を築いたその偉業を称えた。
勲章が授与された時には、既に鈴木氏は他界していた。代わりに出席した鈴木夫人は、ある書状を携えていたという。それは、1942年に鈴木大佐が任務を終えてビルマを去る際、アウンサン(下写真)ら独立の志士から手渡された感謝状だった。そこには、このような感謝のメッセージがつづられていた。
「父親が子供に教え諭すがごとく、その子供を守るがごとく、雷将軍(鈴木敬司氏)は真の愛情をもって、ビルマ独立義勇軍の兵士全員を教え、全員をかばい、全員のことに心を砕いてくれた。ビルマ人は、その老若男女を問わず、このことを忘れることは決してない。われらは、ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末永く懐かしむ。将軍のビルマ国への貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡ぶとも、われらの感謝の気持が亡ぶことはない」
展転社「アジアに生きる大東亜戦争」より)

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解説

ミャンマー国歌『我、ミャンマーを愛さん Gaba Ma Kyae Myanma』は、1947年に国歌に制定された。亡命政府であるビルマ連邦国民連合政府も国歌として制定している。

歌詞の意味・日本語訳

kam.bha ma.kye / mran.ma prany /
tui. bhui: bwa: a.mwe cac mui.
hkyac mrat nui: pe //
prany htaung su. kui a.sak pe: lui.
tui. ka kwai ma.le /
da tui. prany da tui. mre to.
puing nak mre //
tui. prany tui. mre a.kyui: kui
nyi nya cwa tui. ta.twe htam:
hsaung pa sui. le
to. ta wan pe a. hpui: tan mre //
ミャンマーを永遠に愛さん
我らが祖先の地ミャンマーを
この身を捧げて祖国を守る
我らが国家、我らが土地
団結して祖国に善を為そう
それが我らの責務
かけがえのない大地よ

国家データ

首都ネピドー Naypyidaw
面積676,578平方km
人口50,020,000人(2008年)
参考文書
ミャンマー(ビルマ)国歌と独立の歴史
http://www.world-anthem.com/lyrics/myanmar.htm


本来ならば!、日本国の教育現場で真実の歴史!!!・・・✦【列強の圧倒的な軍事力に拠ってあっと、言う間!に席巻、蹂躙されて国を失い植民地に貶められたアジアの国々が例え敗戦の結果となったが!、・・・列強を駆逐して大東亜戦争後、時を置かずして日本軍が残した遺産(武器、訓練された現地の若者たち)で独立に向けて力強い歩を進み始めた!。 列強は再度、旧植民地奪回を試みたが!・・・、日本軍に見るも無残に敗れ壊走した列強の姿が焼き付けられ、列強には恐怖心を抱かずの反攻が頑強で涙を呑んで諦めるしか術がなかった】:
これ等を子弟達に教え、GHQのWGIP(ワーギルト・インフォーメーション・プログラム=自虐)を刷り込まれ、戦前の日本の歴史(皇室)、伝統、文化、教育の全否定で、見るも無残に打ちひしがれて自信も誇りも失い!、母なる国日本を恣意的に傷つける行為を何とも思わずの歪んだ思考に凝り固まった精神の歪みを矯正すべきです。
真実を伝えると、軍国主義!、戦争賛美!、偏狭なナショナリズム!と「国賊・腐れ粗大マスゴミ」や「思考停止(脳細胞が死滅)の逝かれ・左翼」が狂乱状態になるが、・・・何れは「狂い死!」なるは間違いなし。
日本国は、今や!、国を思う方々と国体破壊を究極的な目的とする反日集団との峻烈、、激烈な戦いの最中で、此れは外敵と戦うより困難なもので、《粗大マスゴミ⇔愚者洗脳機関)/特亜系帰化人/在日/カルト教信者/在日企業/日教組/経団連》・・・強力で資金力も豊富な集団との戦いであり勝敗の帰趨は微妙!といえるでしょう。
もし、特定秘密保護法案が参院で否決され、衆院へ差し戻しとなり、安部政権が腰砕けで廃案決定となると、反日勢力の大勝利となり日本国の未来に大きく不吉な影が射すでしょう。
筆者の水晶玉は参院で否決!を映し出していますが、・・・是非とも誤写であって欲しい!と願わずにはいられません。



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