2018年2月14日水曜日

2月14日は何の日、バレンタインデーではなくて、空の神兵を記念する『パレンバンデー』の日!・・・

昭和17年2月14日、大東亜戦争初頭における画期的な戦果が達成された!〜、
インドネシアのパレンバンの石油生産施設を、『空の神兵』を率いた堀内 豊秋 落下傘降下部隊によって、ほとんど無傷で 確保するという奇跡の大戦果!・・・。


これから毎年2月14日は西洋かぶれ、商業主義に毒された『バレンタイン・デー』ではなくて、… 偉大な先人・堀内 豊秋海軍大佐(当時は少佐)を讃える『パレンバンデー』として記念すべき日ではないか!?・・・

◼︎【空の神兵】:


◼︎【空の神兵を率いた堀内 豊秋】:


生誕           1900年9月27日、日本 熊本県飽託郡川上村出身
死没           1948年9月25日(47歳没)
オランダ領東インドの旗 オランダ領東インド・メナド
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴         1923 - 1945
最終階級          海軍大佐



太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦中の1942年(昭和17年)1月11日!〜、
 海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに、同年2月14日に陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
 これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた

人物像!〜、
1937年(昭和12年)、日華事変の時際は丸腰で住民と交わり、貧しい階層には軍の物資を与えた。
1938年(昭和13年)5月、福建省厦門(アモイ)を日本帝国海軍第5艦隊の作戦部隊が占領すると、堀内豊秋少佐は住民との交流を深め、荒廃した地域を復興させ、公正な裁判を実施し、治安も回復させ、住民の信望を集めた。
 昭和15年5月、『堀内交代』の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官・牧田覚三郎少将に提出した。

嘆願書にはこう書かれていた!~、
『蒋介石政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。
 堀内部隊長らを長期に亘って駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望する』、… 叶わぬと知ると『去思碑』を建て堀内の徳政を称えた。

堀内豊秋少佐の次の任務は!~、
 大東亜戦争当初、オランダに支配されていたインドネシアのメナドに落下傘の奇襲部隊の指揮をすることであった。!・・・
  インドネシアには昔から『国家・国民が危機に陥らんとした時、北方の空より翼が生えた白馬に跨った獅子達が救援に舞い降りてくる』という“ジョヨボヨ伝説”があり、堀内の落下傘部隊はその予言の如く、インドネシア住民にとっては英雄そのものであった。

堀内軍政を示すものとして!〜、
 堀内大佐の生家に今も大切に飾られている臈纈染の作品が
                すべてを物語っている!・・・
 それはインドネシアの古代叙事詩を主題に描いた作品で、影絵や人物を素材にしたワヤンというこの形式の絵は、堀内大佐が占領下のインドネシア・バリ島シンガラジャ司令時代に、現地住民から贈られたものです。
画面の左側は悪人の頭に大きな石が落ち、驚いてあけたその口に槍が刺さっている。右側には人々が楽しそうに語り合う平和の風景が示され、正義のために戦った五兄弟の母親(伝説中の人物)と、天国にいる高僧と、自由にさえずる鳥が、豊かな色彩で描かれている。
古代戦争劇の一幕を表したこの画面の背景には無数の落下傘が舞い降りている。
ミナハサ地方には古くから、「わが民族が危機に瀕する時、空から白馬の天使が舞い降りて助けにきてくれる」という言い伝えがあった。

堀内大佐(当時少佐)の人柄を如実に語る逸話!〜、
 堀内大佐(当時少佐)はあるとき部下の非をとがめ、こっぴどく叱りとばした後、その非は自分の不徳の致すところ、責めの一半は自分にもあると深く反省し、以後自らを戒める誓いの印として、通訳を通じて、廈門の南西に浮かぶ小島コロンスの洞窟内に下記のような文字を彫った。

『以責人之心責己、以怒己之心怒人』

(人を責むる心をもって己を責め、己を許す心をもって人を許す)

大東亜戦争が終わって三年も経過した1948年(昭和23年)9月25日九月インドネシアのメナドでオランダ軍により日本海軍堀内豊秋大佐に対して銃殺刑が行われた。
堀内豊秋大佐は銃殺の時に目隠しを断り、潔い姿で銃殺刑に臨んだ、まさに
大和魂をオランダ軍に見せしめたものとして後世に伝えられるべきである。

堀内豊秋大佐の辞世の句!〜

神ぞ知る 罪なき罪に果つるとも 
生き残るらむ 大和魂

平成7年、インドネシア独立50周年で、メナドの住民達は堀内豊秋大佐の慰霊碑を建立した。

戦後に戦犯として刑死したが、戦犯裁判に関しては部下の罪を被って死を選んだと言われており、その潔さに心打たれたオランダ当局は海軍大佐として葬列を遇したとの逸話が残されている。墓所は熊本県熊本市浄行寺。靖国神社に祀られている。

引用文献:
◼︎【パレンバン部隊が果たした役割】:
平成30年2月1日『史実を世界に発信する会」の講演  茂木弘道
◼︎【堀内豊秋海軍大佐といわゆる戦犯裁判について】




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