■【佐渡鉱山と朝鮮人 】:
佐渡鉱山は江戸初期から徳川幕府によって本格的に採掘された日本を代表する金山である。 明治維新の後、1869年に工部省の管轄となり、その後農商務省に、さらに大蔵省へと移管さ れ、1889年に宮内省御料局の所管となった。
明治政府は欧米の技師を佐渡鉱山に迎え、各種 の技術革新を行ない、積極的な採掘を進めた。 一方、朝鮮政府も1876年の開港以降近代化を急ぎ、1885年からは各監営で開鉱に着手した。
1887年5月に鉱務局を設置し、同年6月に永興府使李容翔を成鏡南道鉱務監理に任命するなど、 本格的な採掘に着手した。
宮内省御料局は1889年1月に佐渡鉱山学校(学校長兼教授渡辺渡)を設置した。
佐渡鉱山学 校は鉱山従業員の子弟を養成し、有能な技術者に育成することが目的だった。
学校は正課と 予課に別れ、修業年限は正課1年半、予課3年である。
開学年の生徒数は、正課87名(採鉱学 科27名、冶金学科32名、機械学科19名、建築学科9名)、予課41名だった。1892年4月に第1回 目の卒業式を挙行した。
第1期生の生徒の中に、東京の工科大学の学生とともに、朝鮮政府か ら派遣された朴昌圭、具然寿、朴致雲の三名が入っている。彼らは日本語の通訳付きで授業 を受けながら、近代鉱山学を学んだ。
この3名が佐渡鉱山に入った最初の朝鮮人と思われる。 三人とも後に、日本と密接な関係を持つことになる。
朴昌杢は1905年3月、日露戦争の「日本 戦勝祝賀特派大使」の随員として日本を訪問する。朴致雲は1894年日本軍の東学弾圧に、通訳として協力する。
具然寿は1894年9月現在砿務局主事となり、1895年10月日本が閾妃を殺害 した際、その遺体を焼く作業に関わり、この後日本に亡命する。
■ 【朝鮮人労働者の戦時動員】 :
1937年7月の慶溝橋事件により日中戦争が全面化すると、佐渡鉱業所は金増産・鋼増産のた
めに朝鮮人男性を労働者として大量に動員した。
1939年7月日本政府は朝鮮人男性を日本の鉱
山、炭鉱、土木の三分野に限定し、労働者として動員すること決定した。
1939年度の朝鮮か
らの労働力導入は8万5000名に決定した。
当初は各企業による『募集』の形式を取っていたが、 1942年7月から『労務協会斡旋』に変更し、1944年9月から『徴用』に頼った。 これらは日本 政府と朝鮮総督府が密接に連携し、国策として遂行された。
佐渡鉱業所は1939年2月に、朝鮮人の第1陣『募集』を開始した。
「募集」地域は忠清南道で あった。佐渡鉱業所が朝鮮人『募集』を商始した理由を、当時の労務課員は内地人坑内労 務者に珪肺を病む者が多く、出鉱成績が意のままにならず、また内地の若者がつぎつぎと軍 隊にとられた為である。
これが事実なら、単に日本人の徴兵による労働力 不足を柚填するに留まらず、
日本人の珪肺感染を防ぐことに狙いがあったことになる。
佐渡鉱業所が1939年に数回に亘り募集を行い、… 合計で何名の朝鮮人が佐渡に渡ったかは不明 である。
労務課員によれば、1939年2月には、『一村落20人の募集割当てに約40人の応募が
殺到した』ほどであったという。
鯛当時農村は大きな危機に直面していた。1939年7月、8月に 朝鮮南部は数十年ぶりといわれる大皐害に見舞われた。羅災者の中には、一時流言輩語、自暴 自棄的言動の続出となり、飼料難に因る畜牛の放売、農務閑散に伴ふ雇人の解雇、生活難に 依る婦女子の売買、学童の休退学、職を求めて他郷へ流出する者、乞巧浮浪者に転落する者 が急増した。
勿論、こうした農村疲弊の中、生活の活路を見出すため、佐渡鉱業所の『募集』に応 じざるを得なかった朝鮮人は多かったと思われる。
佐渡鉱業所は1940年2月から1942年3月までに、6次に渡って総数1005名の朝鮮人労働者を 『募集』で集めた。
この内訳は、表2のとおりである。
佐渡鉱山への連行は、1942年3月以降も続いた。
この問の回数や人数は不明だが、1944年7 月新たに数十名が動員されている。これは『労務協会斡旋』によるものであろう。
7月13日に 一行の入山式が佐渡鉱業所の『協和会館』で行われた。竹越鉱山長の訓示、来賓代表堀川相 川警察署長の祝辞に次いで、入山者代表「大海昌根」(33才)は『大東亜戦に勝抜くためこの 山と運命を共にし決死増産に挺身敢闘せん』と宣誓した。
敗戦前に佐渡鉱業所が朝鮮で労働者を募集した地域は、忠清南道80%、忠清北道・全羅北 道20%だったという。
朝鮮人の動員は1945年7月が最後で、労働者だけで『回を重ねて総数千 二百名人』だったという。これに家族まで加えれば、少なくとも1300名近い朝鮮人が佐渡鉱 山で暮らしたと推定される。
佐渡鉱山には朝鮮人以外に、日本人の学生や『勤労報国隊』も数多く動員された。1943年8 月に『学徒勤労令』が出され、勤労動員は本格化した。佐渡鉱山には相川中学校、相川高等 女学校学の生徒が動員された。仕事の内容は、工作場では鉄屑整理、鋳造物の運搬、キュー ポラに入れる石や粘土運び、酸素ボンベ運搬などだった。鳥越坑の鉱石運搬は山の斜面でト ロッコを使用するため、危険かつ重労働だった。1945年3月には相川嵩等女学校の3年生57名 が佐渡鉱山選鉱場に出動していた。
また、『勤労報国隊』の一例として、1943年10月に『一日勤報隊』が佐渡鉱山に入った。こ れは佐渡島内の神職、僧侶などを含む90名で『坑内深く鳥越の作業現場に突進』し、『鶴噴 を打下し、鉱車を押し終日増産に敢闘した』。
また、『勤労報国隊』の一例として、1943年10月に『一日勤報隊』が佐渡鉱山に入った。こ れは佐渡島内の神職、僧侶などを含む90名で『坑内深く鳥越の作業現場に突進』し、『鶴噴 を打下し、鉱車を押し終日増産に敢闘した』。
また、地元婦人会の79名も勤労奉仕を申込み、 二班に分かれて選鉱場で選鉱作業に従事した。
1944年3月に佐渡郡内の男性80名、女性50名 によって『佐渡鉱山勤労報国隊』が組織され、佐渡鉱山に送り込まれた。しかし、これらはい ずれも主に坑外作業であり、坑内作業はほぼ朝鮮人に依存していた。
朝鮮人は佐渡鉱山の他に、相川町から北東24kmにある高千鉱山にも動員された。高千鉱山 は金銀銅を産出し、1896年佐渡鉱山とともに三菱合資会社に払い下げられた。
1936年12月現 在の従業員数は247名、1935年度の産出粗鉱は18568tであった。
従業員数、出鉱量ともに1938 年、39年がピークだった。
朝鮮人労働者が動員された時期は不明だが、『労働者不足を補うた め、朝鮮より男4〜、50五名が連れてこられた。
彼らは閉山(1943年12月=広瀬)に至るまで、 北立島塚の合宿所(相愛寮と称した)で生活した」という。
おそらく佐渡鉱山に動員された 朝鮮人の一部が、高千鉱山に送りこまれたと思われる。
■【佐渡鉱山における朝鮮人の労働と生活】:
■【佐渡鉱山における朝鮮人の労働と生活】:
佐渡鉱山での労働 !〜、
佐渡鉱業所の朝鮮人に対する基本姿勢は、佐渡鉱業所『半島労務管理二就テ』
(昭和18年6 月)によく示されている。
朝鮮人に対して!〜、
朝鮮人に対して!〜、
〚全国的労務配置二付テ量的ニハ行ク所迄行キタ ルヤノ観アリ、今後ハ質的向上二全カヲ注ギ能率増進ヲ図ル要アルベシ!〛と考えていた。
(これ以降、引用註のない引用はすべてこの史料による)。
(これ以降、引用註のない引用はすべてこの史料による)。
朝鮮から連れて来られた朝鮮人は 大多数が農民である。
彼らを日本人に絶対服従する鉱山労働者にする為に、事前に十分な 『訓練」』が必要だった。〚移入時ハ輔導学校(上中下ノ三学級二分チ上級ハ国民学校四年終了 程度以上ノ国語理解カアル者、中級ハ梢々国語ヲ理解スル者、初級ハ全然国語ヲ理解シ得ザ ル者トス)ヲ設ケ三ヶ月間国語教育二重点ヲ置キ併セテ規律訓練礼儀作法等内地人生活ヘノ 指導二務ムル外該期間中屡々講習会ヲ開催シ保安意識ノ徹底ヲ計ル外、就業前係員ヨリ種々 操業上ノ注意ヲ与へ国民体操等ヲ指導ス〛という。
つまり、日本語教育と日本人化教育を徹 底し、その次に保安意識を持たせることを目的にした。
1942年5月現在佐渡鉱山には表3のように、日本人709名、朝鮮人584名、合計1239名が働い ていた。職種別に日本人と朝鮮人の割合を見ると、朝鮮人の割合が高いのは『運搬夫』、『磐 岩夫』、『外運搬夫』、『支柱夫』であり、主に坑内労働である。日本人の割合が高いのは、『其 他」』、『工作夫」』、『雑夫」』、『製鉱夫』である。
これから、『運搬夫』、『襲岩夫」』、『支柱夫」』という危険な坑内労働を朝鮮人が担ったこ とがわかる。
佐渡金山期の鉱脈は6条(青讐・大立・鳥越・七助・中尾・鰐口)であり、この 内、青讐・大立・烏越の3鉱脈が主要鉱脈だった。佐渡銅山期の鉱脈は旧坑鳥越、鶴子支山な どであった。
1943年8月の採掘の様子を、新聞のルポタージュから見てみよう。
佐渡鉱業所の門には『完勝は日々目標の突破から、増産は不屈不擁の戦意から、勤労と無 事故で破れ米英を』の標語が掲げてある。
佐渡鉱業所の門には『完勝は日々目標の突破から、増産は不屈不擁の戦意から、勤労と無 事故で破れ米英を』の標語が掲げてある。
午前6時10分、門の南側では相川国民学校の子供数 10名が出勤する鉱夫に、『皆さんおはようございます、敵米英に打ち勝つために今日もしつか り増産をお願ひします』と声をかける。
作業に先立ち、坑内で『一同宮城の方位を拝しまつ 暗な坑道の奥に向つて最敬礼をした次いで戦没将兵並に前線将兵に対し感謝の黙祷を捧げ、 伊勢神宮並に山神を拝礼、そして最後に聲を揃へて丑希会綱領を厳かに唱和した』。
この後、 『職員総掛かりで勇ましい差し込みが始まった』。これは当日の持場の仕事を鉱夫に伝えるこ とである。『佐渡鉱山は全体の採鉱二組に分け、毎日の採炭成績を掲示して産業戦士の競争心 を煽り増産戦果の拡大に努めてゐる(中略)作業は三交代制で朝六時始業午後三時迄を一番 方、午後二時半から夜十一時迄が二番方、夜十一時から翌朝六時半迄が三番方』とした。
記者が入った第二組鳥越坑は1942年10月から本格的に採掘し始めたものである。
『坑内から一里半も入った奥の坑道から危かしい五間梯子を三本登つて崩れる石を踏みし め乍ら進む、ダダ…パンパーンと絶え間なくハッパの炸裂する音で身体がぐらぐらツとする、 襲岩機を抱へた若い鉱夫が岩に穴を開けてゐる孔の中へ火薬をさし入れて爆発させるのだ 『ハツバだよツ』と大声を告げて後方へ逃げるやうに下がると鉱夫さん達は一斉に岩の蔭へ身 体を避ける、突如炸裂の音と共に岩盤がぐらぐらと揺るぎバラバラと天井から石が崩れ落ち た、前面にポッカリニ米近い穴があいて岩盤には素晴しい鉱脈がきらきらと光りを湛へてゐ る それから鉱石の選別をやり最上鉱と上等鉱二通りに撰分けるそして鉱石を運んで盛り込 みの孔の中へ勉り込むの』である。
『金山の鉱夫は全部毎日残業をし其の半数は十二時二交代 分を働いてゐる状況だった。 朝鮮人の賃金は、『坑内夫二付テハ内地人労務者同様年齢経験等考慮シ業務ノ種類及難易二 依リ予メ査定セル請負単価二依リ其ノ稼高二応ジ支給、極ク少数ノ坑外夫二付テハ定額給ヲ 支給ス」とある。支払い方法について、「賃金ハ月額ヲ以テ締切リ採鉱関係ハ翌月十日、其他 ハ翌月六日二支払フ(内地人同様)』とある。
また、これとは別に『稼動奨励」』のため、各種 の『精勤賞与」』が設けられた。朝鮮人一人当たりの平均月収は1943年4月が83円88銭、5月が 80円56銭である。
ただし、平均稼動日は明かでない。朝鮮人の賃金には二つ問題が指摘でき る。第一に、元農民である朝鮮人にとって技能が要求される『請負制度」』は日本人に比べて 不利だったと思われる。
(2)佐渡鉱山での生活〜
1943年5月現在、584名の朝鮮人は相川町内の4ヵ所で生活していた。
山ノ神社宅(下山之神 町)に117名、第1相愛寮(新五郎町)に185名、第3相愛寮(諏訪町)157名、第4相愛寮(治 助町)に124名、その他に1名となっていた。
山ノ神社宅(下山之神 町)に117名、第1相愛寮(新五郎町)に185名、第3相愛寮(諏訪町)157名、第4相愛寮(治 助町)に124名、その他に1名となっていた。
山ノ神杜宅は家族用であろう。佐渡鉱業所は 『家族持労務者ニハ社宅ノ無料貸与、共同浴場施設、米、味噌、醤油、其他生活必需品ノ廉価 配給(直営ノ購買会)及家族傷病ノ場合ノ診察(直営ノ医局)等ヲ実施 単身者ハ寄宿舎 (相愛寮)三ケ所二収容シ、舎費ハ徴収セズ 食事ハ内地人同様ノ調理ニシテ食費ハー日五十 銭(実費トノ差額ハ会社負担)寝具ハ使用料一ケ月一組五十銭徴収シテ会社ニテ貸与、光熱 費、浴場費ハ会社負担其他作業用品及衣服履物等日用品ノ購入払下等二付テハ前記購買会ヲ 通ジ廉価二行フ、尚右寄宿労務者二対スル炊事ハ共同炊事場(栄養配給所)二於テ之ヲ行ヒ 謙菜類等不足ノ折柄、之ガ補給二付テハ会社直営農園ヲ経営シ疏菜豚肉果実等ノ補給ヲナス』 としている。
このように、佐渡鉱業所は朝鮮人の生活を安定させるため一定の努力を払って いた。直営農園について、新聞は『三菱佐渡鉱業所では使役せる半島人其他数百名の食糧充 足のため相川山之町の山野一町数反歩を耕作し農事技術員を雇ひ入れ甘藷、馬鈴薯を初め野 菜物の大量生産に着手し之れに要する肥料を求むる為多数の豚を飼育して居る』と伝えてい る。
佐渡鉱業所では朝鮮人に現金を所持させないため、賃金を故郷(家族・行政機関)に送金 させたり、強制貯金をおこなった。
これはインフレを抑制すると共に、朝鮮人の逃亡を阻止 することに狙いがあったと思われる。1940年9月忠清南道論山郡出身者代表爺鳳詰を初めとす る同郡出身者94名は、同郡守宛に56円60銭を「細民救済」として送金した。これは「美談」 として大きく取り上げられた。㈲また、佐渡鉱業所は「貯蓄心ノ酒養方策」として「貯蓄額番 付表」を作成したり、「貯蓄奨励金」を附与した。貯蓄には、「国民貯蓄」と「勤倹貯蓄」の 二種類があった。 1944年8月(日不明)における朝鮮人労働者の『国民貯蓄』額は41109円、 『国元送金』は10826円であり、一人当たり106円64銭にはね上がった。
この結果、同年9月25 日における佐渡鉱山の貯蓄総額(職員・労働者)は90万1000円に達した。
一般的鉱山の『部屋』や『宿舎』では賭博が広く行われた。
朝鱒人も次第にこの習慣に染ま り坤めた。朝鮮人は深夜人里離れた藪の中や火葬場で蝋燭を灯して、博打を打った。
1941年4 月に第一相愛寮で『豊田圭泰』など4名の朝鮮人が『花札賭博の真最中を相川署貝に幣み込ま れ』、取り調べを受けた。
1942年4月にも、相愛寮で李漢鳳など3名が花札で賭博を開帳中、 日本人労務課員がこれを発見し、3名を所轄警察署に連行しようとした。
同僚朝鮮人160数名 はこんを奪還しようとして寮の事務室に殺到し、労務課員に傷害を追わせ、事務所の窓ガラ ス36枚が書吐れた。このため、相川署員が急派し、主謀者8名を検束し、「鎮撫」解散させた。
(3)目本の敗戦と佐渡鉱山からの帰国!〜
翌8月16日に相川警察署 長、特高係、佐渡鉱業所の三者は、敗戦による朝鮮人坑夫の『稼動率低下』を防ぐため、『指 導会』を開催した。
佐渡鉱山へは敗戦直後から、第1次、第2次『特別挺身隊』として派遣さ れていた朝鮮人が戻ってきた。
福島組は8月26日、埼玉組は8月27,28日の両日、計319名が佐 渡に到着した。
本来派遣した数は408名であり、この間に89名が行方不明となっている。
これ は埼玉、福島にいる間に逃亡したか、あるいは8月15日以後に佐渡への帰島を拒否した者であ る。
また、敗戦によって佐渡から逃走する者、反対に帰山する者などが相次ぎ、8月末に佐渡 鉱業所の朝鮮人は573名に達した。8月15日から9月11日までに、佐渡鉱山から新たに逃走した者は7名、一方帰山した者は27名だった。これ は埼玉、福島にいる間に逃亡したか、あるいは8月15日以後に佐渡への帰島を拒否した者であ る。
佐渡鉱業所の朝鮮人は直に帰国できるものと判断し、大多数は労働に従事しなかった。福 島県から帰山した3名の朝鮮人は十数名の朝鮮人とともに、共同炊事場係員に『給食量甚ダ僅 少ニシテ不公平ナル分配ナリ』とその理由を詰間した。さらに、『島内二逃走シ居ル鮮人ニシ テ常二社宅及寮生ト連絡ヲ為』す者がいた。
このため、佐渡鉱業所では9月1日から『気分転 換ヲ計ル為出稼競争ヲ実施スル』 ことにし、同日から9月上旬までに平均75%~76%の出稼率 を見せた。
食糧は8月31日まで加配米とともに4合3勺を支給したが、9月1日以降は4合1勺に減 らし、この内約5割は大豆を混入した。副食物の在庫は最低量の15日分、佐渡鉱業所経営農園 で収穫した野菜などが15日分、計一ヶ月分の予定しかつかず、9月末には底を尽くことが見込 まれた。朝鮮人、佐渡鉱業所のいずれにしても一日も早い朝鮮への帰国が望まれていた。
■【佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)】:
新潟国際情報大学情報文化学部紀要 〚人文科学編〛
✺ 1939年2月には、一村落20人の募集割当てに約40人の応募が 殺到した。
✺ 佐渡鉱業所は1940年2月から1942年3月までに、
6次に渡って総数1005名の朝鮮人労働者を 『募集』で集めた。
✺ 敗戦前に佐渡鉱業所が朝鮮で労働者を募集した地域は、
忠清南道80%、忠清北道・全羅北 道20%だった。
✺ 朝鮮人の動員は1945年7月が最後で、労働者だけで
『回を重ねて総数千 二百名人』だった。
これに家族まで加えれば、少なくとも1300名近い朝鮮人が
佐渡鉱 山で暮らしたと推定される。
✺ 朝鮮から連れて来られた朝鮮人は 大多数が農民である。
1942年5月現在佐渡鉱山には表3のように、日本人709名、朝鮮人584名、
合計1239名が働い ていた。
✺ 『稼動奨励』の為、各種 の『精勤賞与』が設けられた。
朝鮮人一人当たりの平均月収は1943年4月が83円88銭、5月が 80円56銭である。
ただし、平均稼動日は明かでない。朝鮮人の賃金には二つ問題が指摘でき る。
第一に、元農民である朝鮮人にとって技能が要求される『請負制度』は
日本人に比べて 不利だったと思われる。
✺ 佐渡鉱業所では朝鮮人に現金を所持させないため、賃金を故郷
(家族・行政機関)に送金 させたり、強制貯金をおこなった。
重箱の底を突いても!〜、
佐渡金山で朝鮮人の強制連行、
労働の証拠は見当たらない!・・・
日本政府は、戦時の朝鮮人強制労働の事実を認めるべきである
❝佐渡金山❞を進めるなら❝慰安婦❞の記憶遺産も進めてくれ!・・・
国賊!〜、
✦ 日本共産党政治家!・・・
✦ 元は政治家、今は電波芸人、粗大魔スゴミの幇間!・・・
超弩級の世迷い言を言いた放題、何を言っても裁かれることはない!・・・傲慢そのものである。