2014年9月27日土曜日

公開された米軍公文書(慰安婦尋問書)の全文、翻訳


1973年に公開された『米軍・慰安婦尋問書』の翻訳が漸く終わりましたので、此れを以下に記載致します。

【報告書49: 日本人の戦争捕虜捕・売春婦の尋問】:

米国戦争情報局:
米陸軍部隊所属・心理作戦班
インド-ビルマ戦域 APO 689(インドアッサム州のレド)
日本人戦争捕虜尋問 レポート第 49 号。
尋問の場所 : レド
尋問日付  : 8 月20日 〜9 月10日 1944
報告書の日付 : 1944 年 10 月 1 日
報告書作成者: T Alex Yorichi(アレックス・ヨリチ)
 囚人   :  朝鮮人慰安婦 20名
捕囚日付 :  1944 年 8 月 10 日
到着日  :  1944 年 8 月 15 日

序文:
この報告書は、8月10日にビルマ・ミイトキーナ陥落後の掃討作戦に依って捉えられた20人の朝鮮人慰安婦と2人の日本人民間人に対しての尋問で得られた情報に基づいている。

報告書は如何に日本人が生活や労働条件、日本兵との関係、軍事情勢を説明した上で朝鮮人慰安婦を募集したかを明らかにしている。
慰安婦”は日本軍を追従して日本兵の為に成る売春婦または『プロフェッショナル・キャンプ・フォローア(野営追軍プロ)』以外の何者でなく、・・・慰安婦の言葉は日本人独特のものである。
他の報告書にも『“慰安婦”は必要とされて、日本軍が戦う至る所で散見出来た!』と記されているが!、・・・此の報告書はビルマで日本軍に追随していた日本人に依って募集された『朝鮮人慰安婦』だけを対象としたものである。
1942年には703人が日本人に依ってビルマに送られた事が報告されている。

募集:
1942年4月初旬、東南アジアを制圧して日本統治と成った地域で、慰安奉仕に携わる朝鮮人婦女子を徴募する為に日本人仲介者達が朝鮮に到着した。
 如何なる奉仕なのか?は特定されなかったが、・・病院で訪れ『傷を癒している負傷者の包帯を巻く』、『一般的に兵士を喜ばせる!』など仕事に関連している!思われていた。

此れ等の仲介者に依って為され勧誘は!、・・・高収入で家族の借金返済可能、簡単な仕事、新しい土地のシンガポールで希望に満ちた生活への期待などだった。
 此れ等の誤解に基づいた描写で多くの婦女子が海外任務の徴募に応じ、数百円の前払いで報われた。

婦女子の大半は無知と無教育であり、中には以前に地球最古の女性の職業(売春)の経歴がある者が数多散見できて、契約書に署名した婦女子達は家族の負債の為に前渡しされた金額に応じて6ヶ月〜1年間の期間を軍規と戦争と『ハウスマスター(売春宿主人)』に従う事を余儀なくされた。
此れ等の手法で約800名の婦女子達が勧誘され、・・・日本人の売春宿主人と共にラングーンに1942年8月20日頃に上陸し、8人から22人の集団で勧誘された婦女子達は、ビルマの通常日本軍駐屯地の近くの中都市の彼方此方に派遣されて、最終的には4団に編成されて、ミイトキーナに達した。
売春宿は共栄、金水、ばくしん楼閣、桃屋であったが、・・・4団がミイトキーナに達した時に共栄は丸山と呼ばれていたが、名称がミイトキーナ駐屯隊司令官の丸山との類似が有るとの理由で変更された。

人格:
尋問で朝鮮人娼婦は約25歳程で無教育で子供っぽく、利己的で!、・・・標準的なコケイジャン(白人)や日本人の標準より醜い事が明らかになった。
娼婦達の態度は自己中心的で自分自身の事ばかりを語りがたる傾向があるが、見知らぬ人の前では寡黙で控えめな態度を示す反面、客の気を引く擬態には長けている。
自分の職業を嫌悪しており、職業や家族の話をする事は好まなかった。
娼婦達はミイトキーナとレドゥーで連合軍からから受けた仕打ち、・・・囚人として扱われた事に依って米軍兵士は日本軍兵士より遥かに感情的で粗暴である事を悟り、加えて支那人やインド人の兵士を極度に恐れた。

生活・労働条件:
ミイトキーナでは、娼婦達は4等分された大きな2階建(通常は学校)ての家に個別の部屋に充てがわれ、其々に住み、就寝して商行為(売春)を行い!、・・・娼婦達の食事は用意された物を売春宿の主人から買い、軍からの定期的な配給は受け取らなかった。
娼婦達は近隣のビルマや他の場所と比較して高級と言える場所に住み、快適な生活をしており、加えて食料や必要な物資などは厳しい配給とは無縁で、充分なお金を所有して望む物を買う余裕があり、更に・・・衣類、靴、タバコ及び兵卒に与えられた訪問袋の多くを補う化粧品を購入する事が出来た。
此れ等はビルマに2年目の生活の紛れも無い事実であった;
 ビルマでは娼婦達は士官や兵卒達とのスポーツ行事に参加、更にピクニックや社交夕食会、娯楽などを楽しみ、・・・蓄音機を所有し、そして町まで買い物にいく自由があった。

以前の制度:
軍は密集地域で其々に特定区で営業している売春宿の利用客の優先順位、価格、日程は必要であると認識し、・・・軍に依って調整される条件で商行為(売春)は許され、・・・密集市街地では厳密な規制を遵守させられた。
尋問書に依ると、標準的な制度は以下の通りであろ。

1) 兵卒 : 10 AM to〜5 PM 料金=1.50 円    所要時間= 20 t〜30 分間
2)下士官: 5 PM to〜9 PM  料金=3.00 円    所要時間= 30 〜40 分間
3)士官 : 9 PM to〜12 PM 料金=5.00 円    所要時間= 30 〜40 分間

これらは中央ビルマの平均的な代価だった。士官は 20 円で一晩を過ごす事が許されました。ミイトキーナでは大佐丸山が平均価格のほぼ半分に価格を引き下げた。

日程表:
兵士達はしばしば売春宿の余りの混雑ぶりに不平を言った。厳しい軍規に依って彼らは時間超過は許されず目的を果たさずに去らねばならぬ事が度々あった。
此の問題を改善する為に軍は限定された部隊に特定日を設け、・・・通常、兵卒を識別する為に部隊の兵卒2二人を売春宿に駐留させ、・・・巡回する憲兵も秩序を維持するのに手を貸した。
18師団の其々の部隊がNaymyo(メイミョー)に駐屯していた時に共栄楼で告示されていた日程表を以下に示します。

日曜日 : 18th 師団参謀将校
月曜日 : 装甲機動部隊
火曜日 : 工兵
水曜日 : 休日、 定期検診
木曜日 : 従軍医師
金曜日 : 山砲兵
土曜日 : 兵站部隊

将校達は一週間七日、売春宿に来る事が許されていた。
娼婦達が日程表に従っても混雑振りは限界を超えて、客の全てに応える事ができずに、それが多くの兵卒の気分を害する事に不満を抱いていた。
兵士達は代価を支払い2インチ四方の厚紙、・・・左側には順番と右側には売春宿の名が書かれている整理券を貰い、列に並び各兵卒の身分、階級は順番が来た時に認識された。
娼婦達は兵卒が酩酊している場合には拒否する特権を与えられており、此の特権は往々にして行使された。

報酬と生活環境:
売春宿の主人は娼婦達が契約の際に前借りした債務の金額に応じて、総収入の50〜60%を受け取った。総収入は月1500円にも達して、750円が売春宿の主人の手に渡った。
数多の売春宿の主人は娼婦達に高い食料品や他の必需品を売りつけ、生活を困難にさせた。
 1943年には、軍は特定の娼婦、・・・債務の支払いが完了した特定の娼婦に母国への帰国命令を下した結果、数多の婦女子が朝鮮に戻った。
 尋問が進むに連れて娼婦達の健康状態が良好で有る事が明らかになった。彼女達は如何なる種類の避妊具を豊富に供給され、更に兵卒は度々、軍から支給された避妊具を持参してきた。娼婦達は良く訓練されており、自分たちと客の衛生面にはよく気を配っていた。
正規の軍属医師が売春宿に一週間に一度は検診に訪れて、羅病が発見された時は治療を施して、隔離、ゆくゆくは病院に送られた。此の処置は階級に応じて軍事自体に取られ、…興味深い事は病床に臥している兵士達には給料が支払われていた事は注目に値する。

日本の兵士達への反応:
売春婦達の尋問の結果、日本軍将校2人の人物の名前が浮かび上がったのが、ミイトキーナ師団長丸山大佐と援軍が派遣され、此れを引率した水上少将で、両者は全く正反対で前者は高圧的、利己的で兵卒を全く思いやりがなく嫌われていたが、・・・後者は、優しくて親切で後日、部下の兵卒には最大の配慮を示した。
 大佐は売春宿の大変な常連客で、少将は一度も訪れなかった事で知られていた。
ミイトキーナの陥落ともに丸山大佐は“戦線から離脱した!”と推定され、水上少将は兵卒を撤退をさせる事が出来ず責任を感じ自決した。

兵士の反応:
平均的な日本兵卒は満員状態の時に『兵士は列に並び順番を待つ事に気恥ずかしい思いをし、更に待っている自分の姿を見られる事を嫌がっていた!』と娼婦の一人は語った。
順番を待つ事に気恥ずかしい思いを持ちながらも、・・・兵士達は娼婦を見下す事はせずに求婚して、特定の場合は結婚が実行された多くの実例があった。

売春宿に赴き娼婦達に会いに来る客の中で最も悪いのは『将校と兵卒で酩酊している者、翌日前線に向かう者たちである!』と全ての娼婦達は認めていたが、・・・同時に酩酊しているのにも拘らず日本兵卒達は決して軍事に関する事や機密を漏らす事はなかった事も認めていた。
将校や新兵達は娼婦達が何らかの軍事に付いて会話を進めても乗らなかっただろうが、・・・然し実際は女性に不向きな話題を持ち出す事に対して娼婦を叱責した。
更に丸山大佐は酩酊しても決して話題にはしなかった。

兵卒達はどれだけ故郷の家族から受け取った『雑誌、手紙、新聞』などに小躍してよろこんだたか!、・・・しばしばその様子を娼婦達に、また慰問袋の中味(缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯磨き、小さな人形、口紅、衣類)を話した。
口紅、や衣類は女性用で、娼婦達は故郷の家族達は何故に其の様な物を送ったのか?理解出来なかったが、・・・おそらく送り主は女性で受取人が、自分を偲ぶ事を願ったか?、亦は家族が『現地で知り合った女性への贈り物用として送ったのであろう!』と推測した。

軍事情勢:
米軍最初のミイトキーナ攻撃!、・・・滑走路の戦闘では200人の日本軍兵卒が死亡し、町を守る為に残された200人の弾薬は非常に少なかった。
丸山大佐は兵士達を分散させた。 翌日は敵は無差別に所構わずに撃ちまくったが、此れは標的を定められず様子が窺えて無駄な攻撃であったが、反面、日本軍兵士達は間違いなく命中すると確信を持った時に撃つ、一発必中の命令を守っていた。

敵が滑走路を攻撃する前は、丸山大佐は町が攻撃されるとは思わず、約400人、主に114連隊の兵卒を後方に残しただけで、ミイトキーナの周辺に駐屯していた兵卒を・・・爆雷の様な連合国軍の猛攻撃に備えて、北部戦線や西部戦線のあちらこちらに派兵していた。
水上少将が引き連れて来た援軍56師団の2連隊は後日、町を死守する事は出来なかった。
 塹壕で一日を過ごす事を余儀なくされる程に連合軍の砲撃は熾烈だった事が、娼婦達の一致した意見だった。それでも一人か二人は塹壕で取引を行った。
売春宿は砲撃を加えられ、数人の娼婦は負傷して死人も出た。

退却と捕囚の身:
退却と終には酌婦が捕虜となった経緯はどこか漠然としていたが此れは、7月31の夜、家族、お手伝いと三カ所売春宿(ばくしんろうは金水と合併した)のお抱え酌婦を含めた63人の集団がイワラジ川を小型船で渡り、・・・ゆくゆくはワインマウ近くに上陸し、8月の4日まで其処に宿営したが、退却の目的地のWaingmay(ワインマウには到達できなかった』⟹4日から集団は兵卒達の後を追って歩いたが・・・、7日に兵卒と敵との小競り合いがあり、集団は分散して仕舞った。娼婦達は3時間の間隔を置いて兵卒に付いて来る様に命令されたが・・・娼婦達自身は川の土手に立っても兵卒の姿は見られず、川を渡る手段も無い事に気付いたなどの報告で娼婦達が混乱していたのが原因と思われる。
 酌婦達は10日に、英国人将校に率いられたKaahin(カアーヒン)兵卒に捉えられるまで近辺に散在していた現地人の家に逗留していたが、・・・ミイトキーナに連行され、此の報告書の基と成った尋問が行われ、レドに作られた牢(柵で囲われた)の中に収容された。

要求:
娼婦の誰もが、以前(日本軍の当時)にミイトキーナで使用されていた高音のスピーカからは何も聴か無かったが、ラジオ放送に兵士達が言及するのを小耳に挟んでいた。
捕虜となった娼婦達は『自分達が捉えられた事を知らせるチラシ』で日本軍が娼婦達が捕虜に成った事を知ると、此れが他の娼婦達の命を危険に晒す可能性があるのでチラシを作らない様に懇願した。
『娼婦達が捕虜と成った事実」とどんな些細な事でも朝鮮の為に利用する計画は良い考えだ!と娼婦達はと思っていた。(翻訳者:小山圭介)

文献目録:
戦争アメリカ合衆国情報の元のオフィス。
国立公文書・記録管理局

Original Office of information of war United States.
National Archives and Records Administration

http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html 

                                            

筆者註:


丸山房安(まるやま・ふさやす)大佐:

大正6年5月25日 陸軍士官学校卒業(第29期)・見習士官
大正6年12月25日 陸軍歩兵少尉
昭和17年4月18日 独立歩兵第72大隊長
昭和18年3月27日 歩兵第114聯隊長
昭和19年10月19日 緬甸方面軍司令部附
昭和20年6月8日 東京師管区司令部附

1944年8月27 日、ミイトキーナ防衛戦で負傷、更に持病の神経痛が重なった為、第18師団長中永太郎の計らいでラングーン陸軍病院に入院、10月19日をもってビルマ方面軍司令部付に転任。



ミートキーナで部下の不評を買った丸山大佐はこの後、人が変わったといわれ、シッタン防衛線で取り残された日本軍部隊を救出するために先頭に立ち指揮をとり、後にこの勇戦に触れられても謙虚に答えるだけだったといいます。

水上源蔵中将:



水上源蔵
生誕 1888年9月26日
死没 1944年8月4日(満55歳没)ミイトキーナ
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1911 - 1944

最終階級 陸軍中将


1944年(昭和19年)ミイトキーナ防衛戦

5月 - 空挺部隊を中心に連合国軍に包囲される。最終的に二千数百名が戦死する
8月 - ミイトキーナ守備隊は離脱を開始

9月15日 - 連隊の生き残りがバーモに到着する。再編成のためモンミットに移動する。


一.小官の指揮未熟にして遂に「ミイトキーナ」を確保する能はす。最後の段階に達したるを深くお詫ひ申上く

二.負傷者は万難を排し筏により「イラワジ河」を流下せしむるにつき「バーモ」に於いて救助されたし


そして部下の渡河を見届けた後、一人でその責を負って自決した。死後、陸軍中将に進級し、個人感状を受けた。


ミートキーナで水上少将が自決する前にいろいろな電報が届けられており、特別電報で「貴官を二階級特進せしむ」という電報に対して少将は「香典が参りましたね」と述べ、さらに「貴官を以後、軍神と称せしむ」という電報が来ると「弔詞も来ましたね」従容してと述べた。万感、胸が熱くなります。




英語文字が見られる事から推測すると!、…捕虜と成った後も米軍の管理下で何らかの
性取引が有った様です。
慰安婦尋問・報告書の中で!・・・✮【娼婦達はミイトキーナとレドゥーで連合軍からから受けた仕打ち、・・・囚人として扱われた事に依って米軍兵士は日本軍兵士より遥かに感情的で粗暴である事を悟り、加えて支那人やインド人の兵士を極度に恐れたを上の写真が物語っている様です・






此の様に動物を扱うような、仕打ちでなんの連合軍に危害を加える恐れがない娼婦達を柵で囲った檻の中に閉じ込めたいた様で、更に売春行為を求めた可能性もある。

国の存亡を懸けて戦争は致し方ないが、絶対に負けない戦争をするべき!との感慨を持たずにはいられない!・・・

現今、日本国の主権を侵し、尊厳を泥まみれにしている、米国、支那、ロシアよ南朝鮮!、今に見ろと!、怒りの感情を押さえきれない筆者です。



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