事故が起きているのは本店ではなく現場だ-。9日、食道がんのため58歳で亡くなった東京電力福島第1原発の元所長、吉田昌郎(まさお)氏。東日本大震災による爆発事故から病気療養で退任するまでの約250日間、所長として事故収束の陣頭指揮を取り、大惨事に身をなげうった。頭でっかちの技術屋ではなく、厚い人望で作業員をまとめ上げる現場に強い男だった。
吉田氏は2011年3月の事故時、現場に介入してくる首相官邸と東電本店に対し、現場の判断を貫き通した。東電が公開した社内テレビ会議の映像などからは、さまざまな思いで事故と対峙し苦悩する姿があった。
「これから海水注入中断を指示するが、絶対に注水をやめるな」。同年年3月12日、水素爆発した1号機への海水注入をめぐり、「首相の了解がない」と中断を求めた本店に反し、小声で作業員にこう伝え、自らの判断で事態の悪化を防いだ。
吉田氏は2011年3月の事故時、現場に介入してくる首相官邸と東電本店に対し、現場の判断を貫き通した。東電が公開した社内テレビ会議の映像などからは、さまざまな思いで事故と対峙し苦悩する姿があった。
「これから海水注入中断を指示するが、絶対に注水をやめるな」。同年年3月12日、水素爆発した1号機への海水注入をめぐり、「首相の了解がない」と中断を求めた本店に反し、小声で作業員にこう伝え、自らの判断で事態の悪化を防いだ。
「やってられんわ。そんな危険なこと作業員にさせられるか」。原子炉格納容器が水素爆発するのを防ぐため窒素ガス注入を指示する本店幹部に大声で食ってかかったことも二度三度ではない。
そんな過酷な現場に向かっていく部下や協力会社の作業員には「感謝」を超えた特別な思いがあった。
「放射能がある現場に何回も行ってくれた同僚たちがいる。私は見てただけ。部下は地獄の中の菩薩だった」。昨年8月、福島市で開かれたシンポジウムにビデオ出演し、こう語っている。
事故から約2週間、不眠不休で陣頭指揮にあたっていた吉田氏。休養で東京にいったん戻る際、現場に残り作業にあたる所員に、目に涙を浮かべながらこう言って去るシーンがテレビ会議映像にある。「私は肉体的にもかなりガタがきている状態になっています。非常にじくじたる思いですけれども。またここに戻ってきて、皆さんと一緒に仕事をしたいと思います。本当に申し訳ないんだけど…」
歯に衣着せぬ率直な物言いは、社内で「自信過剰」とみられることもあったが、部下や作業員を常に気遣い、下請け業者からの信頼は厚かった。
『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』の著者でジャーナリストの門田隆将氏は産経新聞の取材に「官僚主義的と批判される東京電力の中でも破天荒なタイプだった。リーダーシップだけでなく、技術や機械にも詳しいオールマイティーの人。部下たちからも信頼が厚く、『吉田さんじゃなかったらだめだった』と口をそろえていた」。各方面から惜しみ、悼む声が相次いでいる。
そんな過酷な現場に向かっていく部下や協力会社の作業員には「感謝」を超えた特別な思いがあった。
「放射能がある現場に何回も行ってくれた同僚たちがいる。私は見てただけ。部下は地獄の中の菩薩だった」。昨年8月、福島市で開かれたシンポジウムにビデオ出演し、こう語っている。
事故から約2週間、不眠不休で陣頭指揮にあたっていた吉田氏。休養で東京にいったん戻る際、現場に残り作業にあたる所員に、目に涙を浮かべながらこう言って去るシーンがテレビ会議映像にある。「私は肉体的にもかなりガタがきている状態になっています。非常にじくじたる思いですけれども。またここに戻ってきて、皆さんと一緒に仕事をしたいと思います。本当に申し訳ないんだけど…」
歯に衣着せぬ率直な物言いは、社内で「自信過剰」とみられることもあったが、部下や作業員を常に気遣い、下請け業者からの信頼は厚かった。
『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』の著者でジャーナリストの門田隆将氏は産経新聞の取材に「官僚主義的と批判される東京電力の中でも破天荒なタイプだった。リーダーシップだけでなく、技術や機械にも詳しいオールマイティーの人。部下たちからも信頼が厚く、『吉田さんじゃなかったらだめだった』と口をそろえていた」。各方面から惜しみ、悼む声が相次いでいる。
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筆者考:
我が身を投げ打って東日本大震災による福島原発爆発事故
の拡大を現場で危険を顧みず、陣頭指揮で防いだ吉田昌郎元所長の訃報に接し、深い悲しみに包まれました!。
ご冥福を祈らせて頂きます!!!・・・。
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