東映フライヤーズ時代の尾崎行雄投手=1967年
速球にもいろいろあるが、尾崎さんのそれはまさに「剛球」。横手に近いフォームから放たれる球がうなりを上げ、捕手のミットを激しくたたいた。
身長は170センチ台半ばだが、胸板は分厚く、地肩の強さも並外れていた。投球動作の前に、両腕を何度も前後に揺らす「ロッキングモーション」(のちに禁止される)が印象的。球を受けた種茂雅之捕手が「球の勢いでミットが止まらなかったのは尾崎だけ」と一部雑誌で証言しているほどだ。
大阪・浪商高(現大体大浪商高)時代、1年夏から3季連続甲子園出場。柴田勲(のち巨人)を擁する神奈川・法政二高との3大会続いた名勝負は今も語り草だ。
1年夏、2年春に惜敗。2年夏の準決勝で雪辱した。決勝にも勝ち、高校を中退してプロ入りした。
デビュー戦も圧巻だった。ミサイル打線と言われた大毎(現ロッテ)相手に、開幕第2戦の延長十回に登場。葛城隆雄、榎本喜八、山内一弘の強打者3人を、いずれも速球だけで打ち取った。
開幕前「いくら速いといっても、まだ高校生だろ」と豪語していた山内には、敵意をむき出しにして三振に。評判以上の剛球、恐れを知らぬ勝負度胸を見て、マスコミは「怪童」と騒いだ。
1年目に20勝して新人王。東映ただ一度のリーグ優勝に貢献した。
4年目の27勝を最高に、5年間で98勝。どこまで勝ち星を伸ばすかと思われたが、その後、肩痛や右手指のマメに悩まされ、成績は下降。
プロ生活12年、29歳で引退した。桜のように、太く、短い野球人生だった。(2013/06/14-09:13)
亡くなった尾崎行雄氏のご冥福を祈ります!!!・・・。
今日の更新記事は政治を離れてスポーツ界の話題記事!・・・故尾崎氏の1960年代の驚愕する活躍を偲ぶものにしました。
【大阪・浪商高(現大体大浪商高)時代、1年夏から3季連続甲子園出場。柴田勲(のち巨人)を擁する神奈川・法政二高との3大会続いた名勝負】・・・筆者はテレビに釘付けで観戦していたが、今でも昨日の様に、好試合だっただけに、鮮明に覚えています。
今日の更新記事は政治を離れてスポーツ界の話題記事!・・・故尾崎氏の1960年代の驚愕する活躍を偲ぶものにしました。
【大阪・浪商高(現大体大浪商高)時代、1年夏から3季連続甲子園出場。柴田勲(のち巨人)を擁する神奈川・法政二高との3大会続いた名勝負】・・・筆者はテレビに釘付けで観戦していたが、今でも昨日の様に、好試合だっただけに、鮮明に覚えています。
【11月11日】1961年(昭36) みんな踊らされた?怪童・尾崎行雄、1日12時間6球団と交渉
【タイトル】・・・
✦最多勝:1回 (1965年)
✦最多奪三振(当時連盟表彰なし):2回 (1964年、1965年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰
【表彰】・・・
✦新人王 (1962年)
✦ベストナイン:1回 (1965年)
【記録】
✦オールスターゲーム出場:3回 (1962年、1964年、1965年)
【初記録】
◆初登板・初勝利:1962年4月8日、対毎日大映オリオンズ2回戦(明治神宮野球場)、10回
◆表に3番手で救援登板・完了、1回無失点
◆初奪三振:同上、10回表に榎本喜八から
◆初先発・初完投勝利・初完封勝利:1962年4月22日、対近鉄バファローズ1回戦(日本生命球場)
【節目の記録】
◆100勝:1967年5月3日、対南海ホークス4回戦(大阪球場)、9回2失点(自責点1)
✦1000奪三振:1972年 9月23日、対南海ホークス22回戦(後楽園球場)、5回表にウィリー・スミスから ※史上45人目
【その他の記録】
8連続奪三振(1962年4月29日、対西鉄戦)
【背番号】
19 (1962年 - 1973年)
以上ウイキペディア引用
※17歳でプロ野球界に飛び込んだのは年齢的には無理で、体(筋肉を酷使、手に豆が出来る特異体質)がついていけず、29歳の若さで引退を余儀なくされたが!・・・数々の記録と共に太く短くの野球人生は野球フアン(同世代)の心のなかで長く輝き続けるでしょう。
参考記事
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08november/KFullNormal20081108200.html
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08november/KFullNormal20081108200.html
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