本日のブログ更新記事は、第三者的な立場にある!〜、
中近東カタール政府が運営するアラビア語放送の国際ニュースチャンネル
(イラン系米国人。ニューヨークのコロンビア大学のイラン学と比較文学の教授)
がアルジャジーラ(Aljazeera)寄稿した論文を和訳、編集してブログ更新記事に取り上げました。
ロシアやアメリカの宣伝機関よりも!〜、 ウクライナのロシア文学の巨匠ゴーゴリに
目を向けた方がいいのではないか!・・・
ゴーゴリは、生まれ故郷のウクライナと文学の祖国ロシアの国境を軽々と越え、優雅に、そして両国の為に永続的な祝福を与えた
最近、グローバル化した災害の
ニュースサイクルの速さは!〜、
目まぐるしいものがあり、恐ろしい程である!・・・
COVID-19の大流行が起こったとき!〜、
私たち(イラン人)はドナルド・トランプ大統領の外交姿勢に
どう対処するか学んでいた処だった!・・・
パンデミックはまだ世界中に大混乱を引き起こしている最中で、環境災害は
恐ろしい次元にピークを迎えていた。
アダム・マッケイ監督の黙示録的ブラックコメディ『ドント・ルック・アップ』(2021)を見て、懸案の気候の苦境を風刺的に完全に把握したところで、突然、
ウラジミール・プーチンがウクライナに侵攻しようとしていると警告するヘッドラインが厚く、怖くなった。
2週間たった今でも、ロシア軍はウクライナに駐留し!〜、
キエフに向かって進軍している!・・・
しかし、何のために?迫り来る気候危機、依然として続くパンデミック、そしてアフガニスタンやイエメンからエチオピアやミャンマーまで、すでに世界を荒廃させている大規模な避難民、飢餓、死、破壊の波の中で、この戦争は何を達成しようとしているのだろうか。21世紀の環境危機の20年後に、19世紀のロシア帝国の騒乱を今、再燃させるというのは、本当に意味がない事である。
► 両家に災いをもたらす:
では、どうすれば煙の上に頭を出し!〜、 正気の空気を胸一杯に吸えるのだろうか?!・・・
個人的には、世界がハルマゲドンに向かって制御不能なほど急降下しているように感じると、いつも同じように不朽の名作、世界文学や音楽といった心が和むものに関心が行く。
もし挫折するのであれば、YVムディンベの『アフリカの発明』とガダマーの『真理と方法』を枕元に置き、ショスタコーヴィチやバッハを聴き、ゴーゴリやハーフェズを読み、エル・グレコやベーザドを見ながらでしたいのである。
今日、芸術に目を向けることは!〜、
狂気の世界で内なる正気を保つための唯一の方法かもしれない!・・・
ウクライナ・ロシア戦争が始まって2週間、米ロ間のプロパガンダ合戦は熱狂的な
盛り上がりを見せている。
米国内の常習的なリベラル派のロシア恐怖症はトランプ派の右派がプーチンへの憧れを募らせることによって悪化しているのだ。
Foxニュースのタッカー・カールソンがプーチンとその侵略を擁護するために新たな低レベルに達し、ニューヨーク・タイムズのいつもの煽動者が戦争の太鼓を叩き始めたので、我々はリベラルのロシア恐怖症と、米国の白人至上主義の回復に役立つと考える強者に対する保守派の行動の両方からの妥協点を探さなければならなくなった。
今日、正気を保つ為の鍵は、英米世界の病的なプーチンへの愛憎関係に吸い込まれることなく、ロシアのウクライナに対する大胆で非人道的な軍事侵略行為を非難できることである。
もちろん、『西側』のプーチンへの執着や彼の悪役ぶりを誇張して無視することは容易ではない。
米国のベテラン馬鹿者トーマス・フリードマンからイスラエルのベストセラー作家ユヴァル・ノア・ハラリまでが、ウクライナにおけるプーチンの覇権主義はこれまで見たこともないもので、… 人類史の転換点だと主張する時、枕に頭を埋めて、この20年間、世界中で米国が行ってきた軍事的強奪はどこにあったのかと考えざるを得ないのである。
プーチンは結局のところ、米国がアフガニスタン、イラク、ソマリア、その他世界中の多くの場所で既に行っていた事をウクライナで行っている訳ではない。 彼は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカではなく、ヨーロッパで行っているだけで、… 同じ軍事的凶悪行為を異なるバケツで為している。
バルドの有名な言葉にあるように、『両家に疫病神』である。
ウクライナ、アフガニスタン、イラク、イエメンの罪のない人々が、どんな旗の下でも帝国の横暴の代償を払わなければならないのだろうか。
► ゴーゴリの『オーバーコート』からみんな出てくる:
私のサバイバル・ツールキットに戻る。
10代の頃、私はロシア文学とアメリカ文学を嗜んでいた。
ヨーロッパ文学には、いくつかの例外を除いて全く興味を示さなかった。
ロシア文学に魅せられた私の中で、最も偉大な人物の一人は、ニコライ・ゴーゴリ(1809-52)であった。
私が彼に魅せられたのは、ペルシャ語訳の『死霊の腸(はらわた)』を読んだときからである。あまりにゴーゴルに魅了された私は、彼の代表作の一つである『狂人日記』をペルシャ語に翻訳したこともある(ロシア語がわからず、英語訳だけでは不十分だと感じた為、あえて出版しなかったのだが、この国では、ロシア語原文の翻訳者がイラン人で、どちらの言語にも堪能であることに恵まれていたのだ)。
ゴーゴリはウクライナ生まれで、文学的にはロシア人であることを、私は長い間、知らなかった。そのことを思い出したのは、バイデンとプーチンがウクライナ戦争について、それぞれの聴衆に事実として納得させようとするのを聞いた時だった。
二人の大統領が世界の注目を集めるために戦うのを見ながら、私は、もし私たちが温情主義の政治家ではなく、他国による一国の侵略の非道さを明らかにする文学史に注意を払うなら、この地域のまったく異なる地図が現れるだろうと思わずにいられなかった。
ゴーゴリの『タラス・ブルバ』(1835年)は!〜、
コサック戦士の生活を描いた壮大な物語である!・・・ この小説は、年老いたコサック戦士、タラス・ブルバと彼の二人の息子の物語である。その息子は、やがて実の父親に捕らえられ、撃たれてしまう。
1842年、ゴーゴリはこの小説の第二版を出版し、ロシアの民族主義的なテーマをより鮮明にした。ロシア文学の研究者たちは、このゴーゴリの大河小説の第二版が、実は『ウクライナの物語がロシアの小説に変化したもの』であり、『コサックとロシアの魂の結合』であることを教えてくれる。
► ウクライナに生まれ、ロシア語で書き、世界に読まれる:
2017年に発表したエッセイで、ギオルギ・ロムサゼとニコロズ・ベジャニシヴィリは、ウクライナとロシアの文化やアイデンティティの境界線におけるゴーゴリの中心性を垣間見せてくれた。
ウクライナで生まれ、ロシアで有名になったゴーゴリは!〜、
両国を結ぶ絆と、両国を隔てる違いの両方を体現している!・・・
両国の関係が悪化するにつれ、ゴーゴリの国籍問題は、ウクライナとロシアの争点として繰り返し登場するようになった。
何が問題なのか?ゴーゴリは母国ウクライナと文学の故郷ロシアの国境を軽々と越え、優雅に、そして両国の為に永続的に祝福を与えてくれた。
20歳でウクライナからロシアに移り住んだ彼は、祖国からの贈り物を文学の約束の地へ持っていった。トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフの仲間入りをし、ロシア文学を比類のない高みに押し上げた。
しかし、ゴーゴリはロシアにも屈せず!〜、
支配者である王政を風刺する象徴的な文学者となったのである!・・・
ロシアの暴漢がゴーゴリに、『おまえはどこから来たのか」』と言っただろうか。… 恰も米国の暴漢が、この国の白人至上主義的人種差別の恐ろしさを指摘する人に常々言うように、である。
全く逆である。我々は皆、ゴーゴリの『外套』から出てきたのだ!と、かのフョードル・ドストエフスキーはゴーゴリの代表作の一つを評して言ったと伝えられている。
モスクワを拠点に、英国の新聞The Guardianをはじめとする国際誌に寄稿している特派員。
2009年、トム・パーフィットは!〜、
ゴーゴリを自分たちのものにしようとするロシアとウクライナの対立について、
以前のエッセイで詳しく述べている!・・・
◼︎ ❮❮ 最初は政治、次にガス。今、ロシアとウクライナの間の長引く 敵対関係は文学的な色合いを帯びてきている。ニコライ・ゴーゴリの
生誕200年を記念して、いがみ合う隣国が遺産を争うからだ!❯❯、・・・
◼︎ ❮❮ しかし、ロシアとウクライナがゴーゴリの文学的栄光をめぐって争った
ように、ロシア人でもウクライナ人でもない世界中の人々は、ゴーゴリの
生誕地や文学作品の言語に基づくのではなく、彼の機知、知恵、崇高な
ユーモアの真髄に対して、同等かそれ以上の
愛と賞賛の念を持っているのである!❯❯、・・・
◼︎ ❮❮ ロシア帝国の残骸からソビエト連邦が生まれ、ソビエト連邦の残骸から
ロシアが存続している。今、ロシアには皇帝と共産主義という2つの大帝国の
トラウマがつきまとう。ウクライナにおけるプーチンの軍事的愚行は、
何かの始まりでも何かの終わりでもない!❯❯、・・・
◼︎ ❮❮ プーチンの下で、ロシアは自国の裏庭で、チェチェンで残忍な正確さで
活動し、シリアでは、世界的野心を拡大した血まみれの王座の凶悪犯を
支援している。ロシアのナショナリズムのジンゴイズムも、この侵略が
『歴史の終わり』と文明に新たな展開をもたらすと考える米国の
識者の無分別さも、ウクライナ難民を他の数百万の人々より優遇する
ヨーロッパのおぞましい人種差別も、
ここでは本当の問題ではないのである!❯❯、・・・
ロシアと米国のプロパガンダに従うのをやめて、世界はロシア文学のウクライナの巨匠であるゴーゴリに目を向け、彼がその優れた文学遺産の中で作り上げた限界空間の中で、文明と野蛮の間の本当の境界線はどこにあるのかを考えた方がはるかに良いだろう!・・・
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