展示関係 略
● Ⅳー4《出版》!〜、
戦犯裁判における検察側の最終弁論の前文を発行するよう、朝日新聞或いは他の同様な出版社に推奨する。
A) 戦犯裁判と占領目的を含む、太平洋戦争の新しい歴史を書く為、民間情報のコンサルタントとして、有能で有名な米国人の歴史家を日本に連れてくる可能性を、真剣に考慮すべきである。その目的は、原稿を日本の出版社に渡し、この新しい歴史書籍を商業活動として行わせること。
要するに、簡単に言えば、原稿を出版社に渡し、出版された書籍を大々的に売り出せ!と言っている。
B) 広島についての総括を、米国の主導的な雑誌によって出版される論文で書かせる事にも、真剣な考慮が払われるべきである。
そのテーマは、日本人が持つ贖罪意識と、現在の窮状の原因についての認識と、再建の為に取られている手段、平和的、かつ文化的活動らと、自国を助け自助努力をしている事である。そのような論文を書かせる事については、ワシントンD.Cに居る、※ 退役軍人准将・フェラーズ と個人的な相談の手配をする事を推奨する。
※ Bonner Frank Fellers:
ボナー・フランク・フェラーズ
Born February 7, 1896
Ridge Farm, Illinois
Died October 7, 1973 (aged 77)
Allegiance United States United States of America
Service/branch United States Army seal United States Army
Years of service 1918–1946
Rank US-O7 insignia.svg Brigadier General
Battles/wars World War I World War II
第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人で、情報将校である。日本の敗戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)マッカーサー元帥と共に、マッカーサーの副官として来日、天皇制の維持や昭和天皇の戦犯不訴追に重要な役割を果たした。
C) 既に朝日新聞によって発行されつつある、キーナン主席検事の論告文(記録J2及びJ-3)を補強する為に戦犯軍事法廷における、検察側の最終弁論前文を発行するよう、朝日新聞または、類似の発行者の鞭撻すること。
ジョセフ・ベリー・キーナン(Joseph Berry Keenan, 1888年1月17日 - 1954年12月8日)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士。東京裁判においては首席検察官を務めた。
マッカーサーの意向を受けて、天皇免訴の立場を取った。裁判の進行に連れて、天皇の不起訴について疑問視する声が各方面から聞こえてくると、… 開廷中にも関わらず一時帰国し、1946年6月18日、ワシントンで記者会見し、天皇を戦犯として裁判にかける事はないと表明した。
《Ⅴ》CIEの手先にされた朝日新聞:
文書《へ》と類似の内容の文書が、同日にCIS( 参謀第二部 )の局長に送られた。
また、文書《へ》において、CIEの手先に使う出版社として、具体的に名指しにされているのは、朝日新聞だけである。
『その他、類似の社』と記述されているが、実際に具体的に名前を記述されたのは朝日新聞だけだった。
2014年、『吉田証言』で2つの誤報訂正で!〜、
日本国民の注目、非難を浴びた朝日新聞の体質は、終戦直後からCIEに見抜かれていたのか?、それともCIEが朝日新聞をそのように育成したのか?、興味尽きない謎である。
朝日新聞の企業体質そのものが、… 戦前から扇情的な見出しただけで、まともな取材活動とは縁の遠い社是と、並びに、日本、日本人に対する愛着心の欠如が、意図も簡単にGHQの走狗となった根源的な理由ではないか?、と考えられる。
結局は ❝ ゴロツキ!❞ 、または、ダブロイド版(瓦版屋)の域からでられない朝日新聞と言っても決して過言ではないでしょう。
《Ⅵ》【4大教育指令】
教育の問題について、CIEがどのように関わったか?を知る為に、CIE文書(原資料)を随分調べたが、『Education』単語は随所に見られるものの、 メデイア戦略のような根本的な役割から、具体的な実施に至るまでの基本戦略を記述したものは、学校教育における
❝ 軍事教練の禁止!❞ ような一部を施策除をいては現在の処は見つかってはいない。
事実は、日本の教育に関する占領軍の工作は、CUEを通してではなく、GHQから日本政府に直接に 働きかけて実施されたのである。
GHQが占領が始まった1945年(昭和20年)の秋から年末にかけて、日本政府に対して発した※ 『4大教育指令』 が歴然たる証拠となる。
米国から派遣された教育使節団は、日本の※ 教育制度刷新委員会(※ 安倍 能成・ 委員長 /※ 南原繁・副委員長 )の協力を得て報告書を作成、マッカーサーに提出した。その報告に基づいて、戦後の日本の教育を左右する諸政策が決定された。
※ 教育制度刷新委員会!〜、
終戦直後の日本に於いて教育制度改革の為に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請により設けられた委員会。 前身は、第一次アメリカ教育使節団に協力するために設立された日本側教育家委員会である。
文部省の影響力を排除するために内閣総理大臣の直属とされた。アメリカ教育使節団報告書に基づきつつ、日本の実状に合わせて、学制改革などの各種教育制度の改革案が審議された。委員長に安倍能成、副委員長に南原繁らが在任した。
安倍 能成(あべ よししげ、1883年(明治16年)12月23日 - 1966年(昭和41年)6月7日)は!〜、
日本の哲学者、教育者、政治家。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣を歴任。貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長。学習院院長。
教育刷新委員会委員長として!〜、
学制改革や教育基本法制定など教育制度改革に尽力した!・・・
✦ 国語審議会会長として!〜、
当用漢字表、現代かなづかいの制定を推進!・・・
なお後に『新仮名としたのは一世一代の過ちであった』と悔恨。
国語学者の山田孝雄から『一世一代の過ちですむか』と叱責された。 同時期に新制学習院院長となり、没時まで在任した。
京城帝国大学教授となり!〜、
✦ 朝鮮の文化を詳細に検討し、 日本人の朝鮮蔑視感情を諌めている!・・・
✦ 平和運動にも参画し、岩波書店の『世界』創刊期の代表責任者となり、一方で1951年(昭和26年)結成の平和問題談話会の発起人にもなった!・・・
✦ 戦前・戦後を通じて一貫した自由主義者!・・・
南原 繁(なんばら しげる、1889年〈明治22年〉9月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月19日)は!〜、
日本の政治学者。東京帝国大学の総長を務めた。
東京大学名誉教授!・・・
1947年5月、単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった。このことで、南原は吉田茂から『曲学阿世の徒』と名指しで批判された!・・・
12月 - 貴族院において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張。これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。
当時の文部省はGHQの指令に従って政策を実施すように命じられた!・・・
総理大臣のほか公職にある人が靖国神社を含む神社に真榊を奉納する際は、私費で行う事などと言う日本教育への明白な管理政策だった。
● Ⅵ−1 第一指令!〜 、
4大教育指令の中で、 1945年(昭和20年)10月22日に発令さた 最も基本的な指令。
当時の文部省はGHQの指令に従って政策を実施すように命じられた。
総理大臣のほか公職にある人が、靖国神社を含む神社に真榊を奉納する際は、私費で行う事などと言う日本教育への明白な管理政策だった。
● Ⅵ−2 第二指令!〜、
1945年(昭和20年)10月30日発令!・・・
GHQの政策に反対する教職員や官僚を解雇するように指示!・・・
テストで、3000人が失格、20万人が自発的辞職!・・・
悪名高い公職追放の一環だった。
● Ⅵ−3 第三指令!〜、
1945年12月25日発令!・・・
『神道指令』と呼ばれ、国家神道や神社神道に対する政府の保証や支援、保全、
などを廃止した!・・・
日本の歴史、伝統の素晴らしさを教える事を禁止!・・・
『神道指令』は未だに禍根となっている。
● Ⅵ−4 第四指令!〜、
1945年12月31日発令!・・・
修身、日本歴史、地理の授業の停止の指示!・・・
修身とは道徳教育だが、日露戦争で日本が勝利すると、欧州人の間で、その勝因は『教育勅語』あった!、と言う噂が広がった。
4−A)『教育勅語』の廃止は!〜、
ケンブリッジで数学と物理を学び、東大と京大の総長、文部大臣などを歴任した菊池大麓
は、イギリスを皮切りに、2年間に亘り欧米で『教育勅語』を英語で解説してまわり喝采を浴びた。その当時の欧米指導層の賛嘆が、後に警戒心に変わり、修身教育の廃止へと繋がった!と考えられる。
4−B) 日本史と地理の禁止は!〜、
明治以後の日本が、白人国家から植民地を奪回するまでに成長した発展を、日本国民の記憶から消し去る為の厳命であった!・・・
世界に米国の民主主義を広める事が、神から与えられた使命だ!と信じる米国人にとり、天皇を中心とした日本の伝統・文化などは、未開で野蛮だ!としか思えず、米国人の理念を日本人に押し付ける結果となった。
GHQが発した指令は、占領軍が去った後、70余年の歳月を重ねても、日本人の喉元に棘のように刺さり、… 第一次安倍内閣で、教育基本法 ・改正が為されても、教科書政策に今でも悪影響を及ぼしている。
まさに、今でもGHQの洗脳から解き放たれてはおらず、教育の歪みは、日本国民が目を覚まさなければ、今後も続くでしょう。
16)◼︎【東京裁判に対する反証】
《16−Ⅰ》 無罪を主張した人々:
GHQの施策の根底をなした『WGIP』は、GHQの強大な権限を背景に進められた。
戦争遂行に加担して協力した!、と言う理由で、外交官、会社経営者、官僚、高級軍人など、日本復興の中枢を担うべき、20万人もの膨大な人数が『公職から追放』され、家族をいれると、100万人を超える人々が露頭に迷う悲惨な結果となった。
これは、当時の日本国民に衝撃を与え、反抗意欲が削がれて仕舞った。
GHQには、誰も反対する事などは不可能な時代であったが、それでもなお、果敢に良心の叫びを発した人々がいた。
東京裁判に関連した人達の様々な声は!〜、
1)● ラダ・ビノード・パール:
1967年1月10日(80歳没)
極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人。
VIDEO
極東国際軍事裁判(東京裁判)において、
全員一致の有罪判決を 目指す動きに反対!・・・
平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、
事後法をもって裁くことは国際法に反する!・・・
被告人全員の無罪を主張!・・・
2)● 米国人の ベン・ブルース・ブレイクニー:
1963年3月4日(没)、 東京裁判においては、東郷茂徳、梅津美治郎の弁護人を務めた。
✦ 国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りである!・・・
✦ 国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対してではない!・・・
✦ 個人に依る戦争行為という新しい犯罪をこの法廷で裁くのは誤りである!・・・
✦ 戦争での殺人は罪にならず、殺人罪ではない!・・・
✦ 戦争が合法的だかまり合法的人殺しである殺人行為の正当化であり、
たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としてその責任は問われなかった!・・・
➤ ❮❮ キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。
その国の元首の名前も我々は承知しており、彼等は殺人罪を意識していたか?していまい。我々もそう思う。それは彼等(米国)の戦闘が正義で、敵(日本)の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである!❯❯・・・
➤ ❮❮ 何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのか?
原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認した者がいる。その人達が(東京裁判を)裁いている!❯❯・・・
✦ 原子爆弾という国際法で禁止されている残虐な武器を使用して多数の一般市民を殺した連合国側が、捕虜虐待について日本の責任を問う資格があるのか!・・・
❝ もし検事がハーグ条約第4をご存知なら、そのうちの陸戦法規にある、一定の種類の型の武器、たとえば毒ガス、細菌など、非戦闘員にも傷害を及ぼす武器の使用を禁ずる、という条項をご存知のはずである!❞・・・
此れは原子爆弾を示唆しており、非戦闘員を殺戮したこの武器は、ハーグ条約に抵触しているという主張となる。例え、始めて使用する大量破壊兵器であり、効果の程は未確認
だった!の釈明は、実験の段階で、破壊力は認識していた筈、従って詭弁にすぎない。
VIDEO
3)●ウイリアム・ローガン弁護人:
木戸被告担当、アメリカ弁護団中最も活躍した一人。
不思議な事で、ローガン弁護人のプロファイルや画像は、ネットで検索しても、発見出来ずでした。
冒頭陳述で『日本に対する連合国側の圧迫』と題して痛烈にかつ詳細に、連合国の仮面を剥いだ。最終弁論を終わるや、判決を待たずに急遽帰国したが、東京を去るに臨んで、全被告に対してつぎの趣旨の挨拶をのべた!~、
『日本には二十年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて 断じてなかったことに確信を持つにいたった。したがって起訴事実は、全部無罪である。
し かしこれは弁護人である私が二年半を費やし、あらゆる検討を加えてようやくここに到達し得た結論であり、… 従って、裁判官や検事はまだなかなかこの段階に到達していないだろうと想像される。これが判決を聞かずして帰国する私の心残りである』・・・
日本人の主任弁護士だった清瀬一郎博士は!~、
『これらの弁護士は、誠によく働いてくれた。 最近まで敵国の指導者であった者を、本当に弁護できるかどうか、疑う向きもないではなかったが、いったん弁護を引き受けた以上、自国の本国政府に反しても、弁護士たる任務を尽くすことに躊躇しない気魄を示した』、述べた。
4)● オランダ人・レーリンク判事:
東京裁判における判事の中でレーリンクは最も意欲的に活動した人物の一人!・・・
ウィリアム・ウェッブ裁判長も『欠けてならない判事がいるとすれば、それはレーリンク唯一人だ。何しろ全ての書類に目を通したのは、彼だけなのだから』と述べている。その一方で、国際法に関しては元々専門外だった事もあり、政治的現実との妥協を強いられる事もしばしばあった。
著書『レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望 』の中で、レーリンクが語った歴史的証言を要約して、抜粋した下りは!~、
➤ ❮❮ 天皇を日本の真髄であり、立憲君主だった。
日本でどのように事態が処理されていたかをみれば、政府が戦争の決定を下したことは明らかある。そしていったん政府が決定を下した後に、天皇は登場を要請され、同意を求められたのです。彼にできたことはただそれだけでした。
私は、天皇免訴の決定に同意しました❯❯・・・
➤ ❮❮ 判事席に坐っている連合国側によって為された、戦争犯罪を証明する事は勿論、言及することさえ弁護団には禁じられたのです❯❯・・・
➤ ❮❮ 最前列隅に、2年数ヵ月の開廷期間中ずっと、東郷夫人が坐っていました。
彼女はドイツ人であたので、反対意見で私は東郷の全面無罪を主張しましたので、
東郷夫人にとても感謝されていました。
裁判を通して、東条夫人に会えたことはとても印象的な出来事でした❯❯・・・
➤ ❮❮ もし広田外交が進展すれば、西欧列強をアジアから駆逐する事が可能だった。なったでしょう。そして日本は世界の指導国の仲間入りをしたことでしょう。
しかし、それにしても、彼の行為は戦争犯罪にはあたりません。
国連は民族自決の推進のための「破壊活動」それ自体を承認したわけです。
4半世紀も経たないうちに、国連は広田が死刑になったと同じ政策を採択することになったわけです❯❯・・・
レーリンクは広田の無罪を主張した。
➤➤ ❮❮ ある人が日本人弁護団の態度を称して、『被告の墓に優雅に花を手向ける』人々と言いました。ある意味でこれは事実です。彼らは諦めているようでした。
彼らは戦争に負けたのだから、自分たちの行動が非難される事を承知しており、ただ、ある観点からは自分たちの行動が理解され、おそらくは正当化されることを世界に示したかったのです❯❯・・・
➤ ❮❮ アメリカ政府は戦争が起こることを確信していましたが、日本によって開始されるように望んでいました。『日本が最初に戦端を開き、しかもわれわれがあまり甚大な被害を被らないように運ぶ必要がある」』とハルは言ったのだと思います❯❯・・・
➤ ❮❮ 日本で、東京や横浜や他の大都市への爆撃や焦土化の全貌を知りました。
我々は戦争法規を守るためにそこへ赴いたが、毎日目にしたものは、連合軍が、いかに忌むべきやり方で戦争法規に違反したかという事だった。
『東京裁判が勝者の裁きにすぎない言った、東條は正しかったのです❯❯・・・
➤ ❮❮ 戦争は、2発の原爆の投下がなくても、日本の降伏によって終結しえたのです。
原爆が使われなければ、勝利する為に、更に数百万のアメリカ人と日本人が犠牲になっただろう』と、いう結論を導くような発言が数多発せられたが、がこれは米国が罪の意識を感じていたからです。実際に戦争を終わらせたのは原子爆弾だと人びとに信じさせるために、プロパガンダが大々的に利用されました❯❯・・・
5)● アンリ・ベルナール判事(フランス代表):
東京裁判の最終判決に異議を唱え続けたフランス人判事。連合国の正義原則に真っ向から立ち向かった反対判決文を提示した。
『神』の為に戦った日本人被告に対し、『神』の法による裁きを下そうとしたのがアンリ・ベルナールの反対判決であった。
パル判事は過ちを犯している!~。
『諸国家が侵略戦争を犯罪とする法をまだ持っていないとする彼の見解は不正確であり、また彼からは戦争責任を個人にも問うことができるという視点が抜け落ちている』と非難している。
6)● 東条英機元首相:
GHQが、原爆投下への批判とならんで、具体的に恐れたのは ❝ 此の裁判は勝者の裁きだ!❞ と堂々と法定で述べた東条元首相の陳述と、それを支持する日本国民の声だった。
東条元首相の事績の中で、安全で自由な天地に逃れる中継点として満州に非難してきたユダヤ人たちを庇護し、輸送の為に列車を手配して、救援の手を差し伸べた部下樋口季一郎
少将を、関東軍参謀長として支持し、ドイツからの抗議に耳を貸さず、結果として1万1000人のユダヤ人を救ったの行為とともに、大きな評価に値する。
《16−Ⅱ》マッカサーも意見を変えた:
マッカーサー元帥は、トルーマン大統領に解任されると、米国上院で『日本が米国との戦争に飛び込んだ主な理由はもっぱら安全保障(自衛権の行使)と陳述したが、…
北朝鮮による南朝鮮侵攻と、それを支援する支那軍との戦闘やソ連軍の圧力を通じ、日本列島が置かれた地政学上の危険に気がついたからだ!と推測されている。
しかし、このマッカーサーの発言を日本の反日勢力は、様々な解釈を盾に認めようとはしない。占領の為に日本に乗り込んだ当初、米軍の将兵たちはこの ❝ジャップ野郎 ! ❞ を懲らしめてたやる!と、意気込んでいたが占領中に日本国民の真の姿にふれ、戦争に至った過程、状況を知るにつれて、多くが親日的になっていった事実を内外の反日分子はどう考えるのか?。
晩年のマッカーサーは、ニューヨークの超高級マンションで日本人から贈られた国宝級の美術品に囲まれて暮らしていたそうで、日本への悪感情が雲散霧消したいた何よりの証拠でとなるでしょう。
極端な嫌日から大の親日家に変わった例として!〜 、
3期にわたり米国海軍作戦部長を勤め『31ノット(積極果敢な』の異名を持ったバークこと アーレイ・バーク海軍大将 。
1901年10月19日ー1996年1月1日(94歳没)、コロラド州 ボルダー生まれ。
最終階級は大将。バークはアメリカ海軍史上でただ1人、海軍作戦部長を6年の長きにわたって務めた。
バーク大将は朝鮮戦争勃発によって日本に派遣され、来日当初は、公の場で日本人を ❝ジャップ!❞ 、❝ 黄色い猿!❞ などと、侮蔑的に呼ぶ嫌日家だった。
しかし、日本国民と交流を重ねるにつれて、親日家となり、日本が一日も早く占領状態から解放されるように尽力し、海上自衛隊の創設に協力した。
後に勲一等旭日大綬章 を授与されたが、バーク大将の墓には、この日本から授与された勲章のみが飾れている!、との事です。
17)◼︎【東京裁判における清瀬一郎弁護士の冒頭陳述 】
《17−Ⅰ》格調高い戦犯無罪論:
弁護団の副団長であった清瀬弁護人の冒頭陳述は、事実に基づく反論と、日本国民の伝統的なものが根底にある格調高い弁論は、今なお胸を打つものがある。
陳述は!〜、
白人中心的な世界観に対する痛烈な批判であり、
其の儘でA級戦犯の擁護論となっている!・・・
後に続く次世代の日本国民への熱いメッセージでもあった!・・・
WGIPの目的は!〜、
日本を戦犯国として規定し、 その事を、日本国民の脳裏に刷り込む事にあった!・・・
その為には、具体的には満州事変以来に日本国の行為を全て侵略行為であると、断定して関わった人々をA級戦犯として処断した。日本国内の反日分子は、東京裁判の流れに悪乗りして、日清、日露の両戦争まで侵略戦争であった!と言い出す始末。
清瀬弁護士は!〜、
ユダヤ人絶滅思想の下で、多くのユダヤ人をガス室に送り込み殺害したナチス・ドイツと同一視する考えを論破し、満州事変については、日本の立場を堂々と弁じ、日本が国際連盟を脱退する切っ掛けととなった※ リットン報告書 の中にも日本の立場に触れ、また、ある時期までは英国や米国も、日本が満州に対して持つ特殊権益を認めていた事実を明らかにした。更に、日中戦争は日中両国のどちらが起こしたのか?についても、中国側の責任である!と明確に言い切っている。
また、日米開戦に至る米国側の行動が、日本を戦争に追い込んだ経緯を説明し、更に、真珠湾攻撃が奇襲(騙し討)でなかった!と東京裁判が行われたた時期に述べていた。
此れだけの事が、終戦直後に言えた清瀬一郎弁護士には、鬼気迫る凄みさえ感じられ、
同じ事を、独立した筈の現今の日本で、閣僚や政治家が発言し、或いは歴史教科書に記述すると、… 朝日新聞のような反日メディアや言論界、それ処か、国会や文科省の一部からさえも猛烈に叩かれる。
これでは日本の現状は、占領直後より悪化している!と言っても決して過言ではない!。WGIPが如何に遅発性の癌細胞だったかが、現今の日本を俯瞰すれば、一目瞭然となる。
次に続く項目は裁判の英文速記記録を 【日本人を狂わせた洗脳工作】著者の関野通夫氏 和訳したものであり、日本語の原稿とは多少の差がある!と述べています。
《16−Ⅱ》ナチス・ドイツと日本の相違:
この訴追の指針の第2部及び訴追の付属文書の第6節は!〜、
大政翼賛会及びその正統的組織を、ドイツにおけるナチ或いはイタリーにおけるファシスト党と類似のものと考えているよう見えるが、… これは、日本の政治についての大きな誤解である。この事は、検察側が提出した証人の反対尋問によって部分的に証明されてはいるが、・・・公文書と証言によって、更に決定的に我々の要点を証明する必要があると考え、そうする次第であります。
《16−Ⅲ 》リットン報告書:
検察側が提出した『リットン報告書』では、その一部分で「・・・此の衝突に絡む問題は、しばしば主張されたほど単純ではない。反対に、それらは、非常に複雑で、全ての事実とその歴史的背景を熟知して初めて、決定的な判断を下す資格がある』と述べている
清瀬一郎弁護士は日本が持っていた、持つに至った経緯を!~
満州国において日本が置かれた特殊な状況を示す為に、日本の特殊権益と満州における利害、それらの適法性を証明する事にします。
日本は何なぜ、満州における特殊権益を得、利害を持つようになったのでしょう。
日本はなぜ、、満州に言ったのでしょう。
日本は狭い国土に大きな人口を持つ国です。移民が可能であれば、移民によって問題の一部は解決されると期待されました。
1908年、いわゆる紳士協定によって米国の移民は中止されましたが、この時、外務大臣小村寿太郎は宮中晩餐会において次のように語っている。
✦『わが国民が、遠い外国の地で、ばらばらに分散するのを避ける為、彼等を、此の地 (満州)に集中させ彼等の共同と協力の下に管理する事が必要となりました。… これ等の点を考慮した日本政府は米国及びカナダへの移民に対した政策に従い移民制限を誠実に行う事になります』、この発言は、日本では、既に米国は了解しているものと受け取られていました。
1917年協定締結時、石井菊次郎とロバート・ランシングによる記念写真
『日本の米国との関係は関しては、ランシング国防長官と 日本 特命全権大使・ 石井菊次郎 との間で1917年に※『 石井・ランシング協定』 、両国は合意に達しました』とのべている。
『 石井・ランシング協定』の概要は!〜、
『米国と日本政府は地理的近接性はその国家間の特別な関係を生む、従って米国政府は、日本が支那において、特に近接している地域において特別な利害関係を有する事を認める』だった。この合意は、覚書の交換と言う形で為された。
合意は後に取り消されたが、その無効化以前に我が国民は満州において多くの事を成し遂げました。この成果は『ランシング/石井協定』の廃棄によっても、消し去る事は出来ません。
《16ーⅣ》盧溝橋事件の責任:
盧溝橋事件の責任は!〜、
日本にはありません!・・・
日本は、数か国の主要国とともに、北支に軍隊を駐留する権利を有しており、1910の 義和団事件 に関する協定とその附属書の下に軍事演習を行う事が許されていました。
更に、この地域においては、日本は重要な合法的利害関係を有し、そこには相当数の日本人が住んでいました。日本が望んだように、此の事件は現地解決が為され、紛争は危険なレベルまでは発展しそうもなく、侵略戦争などと言うような疑問が起こる余地は全くなかった筈です。
従ってこの事件の拡大については支那側に責任があり、日本はこの事件では終始、事態の悪化を避け、現地解決に全力を尽くす政策を維持していた事を証明します。
《16ーⅤ》支那事変の勃発:
日本政府は最初、この紛争を北支に限定したい!と考えていたので、此の紛争を
❝ 北支事変 ❞ と呼んでいました。
然し、日本の希望に反して、その原因は後に説明しますが、支那の中部まで拡大しました。英国、米国及びその他の国の調停によって、1932年に結ばれた ※『 上海停戦協定 』 を無視した支那は、緩衝地帯に陸軍基地を建設して5万人以上の兵力を集中しました。
一方で、此の地域日本の陸戦隊はせいぜい4千人で、そこでの日本人の生命と利益は脅かされていました。
日本海軍から分遣された特別陸戦隊大尉が、支那陸軍の策略によって射殺されました。8月15日には、日本は日本人の生命と財産を守るために、上海に部隊を派遣する事を決定しました。支那中部に紛争が拡大したのは、此のような状況下でした。言葉を変えて言えば、事件を悪化させ、規模と程度を拡大させたのは支那です。
これ等の責任がどこにあるかを決定するについて、本法廷が考慮する為の事実に関する証拠を提出する事になります。
※ 上海停戦協定!〜
1932年1月28日より開始した第1次上海事変における日本と支那との間で締結された停戦協定文であり、…本協定文には本来標題は無いが、当時、外務省において便宜上、同標題が付けられた。
英米総領事の斡旋によって、1月29日午後8時から停戦することになっていたが、30日朝からふたたび双方から砲撃があった。
31日、上海列国海軍先任指揮官イギリス海軍少将フレミングは、まず中立地帯設定案を提議し、撤回し、日本軍備区域を第三国軍隊で警備する案を提出したが、村井倉松総領事および塩沢幸一司令官はこれを拒絶した。
東京で29日英米大使は、日本陸戦隊が共同租界を作戦根拠地となし、日本軍が共同防備の趣旨に反して単独行動をとったことについて警告した。
2月1日、英米仏3国大使は、この警告とあわせて、各自国民の生命財産の保護と軍の行動が自衛行動の範囲外に出ることのないように警告したが、芳沢謙吉外相の説明は反駁的であった。
翌日、3国大使は、調停のために正式に共同提議を行なったが、日本側からの回答に接して断念した。 ジュネーブでは理事会は3月3日の臨時総会の招集を決議し、事前に局面を打開しようと、芳沢外相は2月26日理事会に上海円卓会議を提唱し、上海では日中両国間で停戦の協議が英米仏伊4国の代表を加えて3月4日から数回にわたって開かれた。
しかるに支那側は、停戦と同時に撤兵の期日を明示せよ、満州問題を解決しよう、などと難題を持出し、4月11日突然、会議の延期を申し出、ジュネーブの十九箇国委員会の開会を要求した。 連盟は16日、十九箇国委員会を開き、日本の撤兵の時期を混合委員会の決定に委ねるという案を作った。
日本はこれに反対し、しかしイギリス公使ラムソンの調停あっせんによって妥協案が成立し、4月下旬停戦協定に調印するのみとなった。 しかし29日上海天長節爆弾事件が起こり、しかし、5月5日調印が成立し、 日本政府は上海からの撤兵を決定、5月中旬、陸兵の全てを撤退する事を閣議決定した。 (ウィキペディア引用)
《16ーⅥ》日米通商航海条約の破棄:
1939年7月26日、突如として、1911年以来、日米両国の通称関係の確固たる土台であった※ 通商航海条約 の破棄の通告を受け取った事で誤解が広まりました。その時点からずっと、米国はあらゆる手段を講じて圧力と脅しを日本にかけてきました。
最初の者は、経済圧力です。二番目は日本にとっては死活問題である、蒋介石への援助の拡大でした。第三は米国、英国、及びオランダ領東インドによる日本の包囲です。
支那とも呼応して日本を取り巻く環が作られ締め付けてきました。
これ等の3段階は、1939年以来、一つ一つ採用され、時とともに、その強さは強力になってきました。日本に加えられた経済圧力の一例をここに述べます。
1939年12月、教訓的(制裁的)な禁輸 処置は範囲が拡大され、加えて、禁輸品目に、航空機とその装備品および航空機製造機械とガソリン精製装置が加えられました。
1940年の7月中には、屑鉄が禁輸されました。当時日本で行き渡っていた鉄製造を考えると、屑鉄は貴重な材料でした。 このように強力な打撃が、日本の基幹産業加えられました。同じ年の8月には、米国は航空機用のガソリンの輸出制限を課しました。
一般的に正しいと思われる数字は、日本の石油に対する年間必要量は5百万トンで、その国家防衛の為に必要なものを含めた国の生存にとり必要な最小量となっています。
必要な燃料の国内生産は、せいぜい30万であったので、この不足分は。海外からの輸入で補わねばなりませんでした。
この時には、唯一の可能な供給元は、オランダ領東インド(インドネシア)でした。
そこで、通商産業大臣の小林を団長とするミッションが、そこに送られ、後に吉沢大使がバタビアで、オランダ領東インドとの細かい交渉の糸を探り続けるよう命じられました。然し、オランダ領東インドの指導者は米国及び英国と緊密に協力していた為、これ等の努力は全て水泡に帰しました。フランス領インドシナ( ベトナム・ラオス・カンボジア) とシャム(タイ)の当局者も同様な障害を課し、必要量の米とゴムの輸入も妨害されました。
※ 日米通商航海条約:
明治44年(1911)2月21日、日米通商航海条約が調印され、4月4日に発効。
これにより関税自主権が完全に回復した。また、明治27年(1894)に結ばれた旧通商航海条約では、アメリカは日本移民の入国・旅行・居住について差別的な法律を制定することができることが規定されていたが、これも改正条約で撤廃されたが、・・・ただし、改正条約の調印と同時に、日本側は日本人労働者のアメリカ移住について過去3年間実施してきた自主的制限を今後も継続することを宣言しました。
此の条 約が、 1939年7月28日、 突如として以下の通告書で破棄された!〜、
日本が大東亜戦争へと追い込まれたのは!〜、
上記の通達書( ハル国務長官の名が記されている)!・・・
この通達によって、後に日本の経済 の息の根を止めるような難題が、米国から次から次へと突きつけられた。
太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文(後に 『ハル・ノート』と呼ばれた)の伏線が 日米通商航海条約の破棄だった事は明白である。
《16ーⅦ》イギリスの認識:
さて、ついに、太平洋における戦いの原因に関する話になりました。
もっとも緊密で公平な調査を行うべき誘引となった状況です。
我々は、自衛権を発動する事が、日本にとって最大の必要となった事を証明します。
裁判長の許可を得て1937年以来、世界中も、大体において戦争まではいかないとしても、日本が取り扱った支那との戦争に等しい大規模な紛争に、意図せずして巻き込まれた事を、公平なる法廷に思い込ませて頂きます。
当然の事として、我々は、第三国がこの特別な状況を認識するものと期待しました。
実際、英国は、1939年7月22日付の日本との共同宣言で、・・・そうしました(特別な状況を認識)。
そして、※『天津事件』 の結果として、英国政府は敵対行為が進行中である支那における実際の情勢を完全に認識した、と言う声明を発しました。
※ 天津事件!〜、
土肥原賢二が仕掛けた日中衝突事件 イギリスと対立
Tientsin Incident (1931):
was the operation planned by the Kwantung Army of the Empire of Japan to place Puyi on the throne of the Japanese-controlled Manchuria. The plan, orchestrated by Colonel Kenji Doihara and Colonel Itagaki Seishiro was successful, and Pu Yi was enthroned as "Emperor Datong" of Manchukuo the following year.
1931年、日本帝国・関東軍によって、溥儀を満州の皇帝に座に付かせる為に、断行された軍事作戦。
計画は土肥原 賢二と板垣誠一郎大佐によって綿密に練られ、計画は成功して、溥儀は翌年満州国の大同皇帝に就任した。
天津事件はネット検索しても詳しい資料は見つからず、英語版のウィキペディアで調べましたので、正しい記録であるか?は定かではありません。海外住まいのブログ管理人は、日本に一時帰国(里帰り)した時に、国会図書館に出向き調べる積りです。
《16ーⅧ》真珠湾攻撃は奇襲か:
米国の陸軍省及び海軍省は外交関係の断絶は目前に迫っている事を示唆する情報を把握しており、差し迫った攻撃が予想されると推測していました。
ハワイの部隊も、日本に明白な第一撃を行わせるように誘導するという指示を与えられていたとはいえ、それが、その防衛を危うくする程、艦隊の行動を制約するものとは考えられません。 また、ハワイの部隊は、日本の敵対的行動に先んじて、偵察を行うように指示されていました。
12月7日、午前6時33分と6時55分(ハワイ時間)に、米国海軍は、近接海域で、日本の小型潜水艦を撃沈しましたが、驚くには当たりません。
12月7日、午前7時55分(ハワイ時間)の真珠湾攻撃が奇襲攻撃ではなかった事を示す為に、我々は上記の事実を提示しています。
以上、17章)項目 1~8が!~、東京裁判における清瀬一郎弁護士の冒頭陳述の要旨でした。 『日本人を狂わしたWGIP 洗脳工作』の著者の関野通夫氏が、東京裁判の英文速記録から、裁判の審理要録を作成する為の翻訳陣に加わり、清瀬一郎弁護士の冒頭陣陳述を翻訳した 中から要旨を抜粋したものです。
12月6時33分と6時55分(ハワイ時間)に米国海軍がハワイ近接海域で日本の小型潜水艦を撃沈した事は、米国は日本の敵対行為(軍事作戦=ハワイ真珠湾攻撃)の的確な情報を掴んでいた事になる。
それに対応する軍事行動を敢行した事で、日本の真珠湾攻撃以前に、米国と日本は交戦状態にあった事になり、奇襲とは言えなくなる。
清瀬一郎弁護士の東京裁判の冒頭陳述はこれを示唆している。
GHQによって、情報は秘匿されていたのか?!〜、
また、此の事象を知っていた、日本政府高官(旧軍人も含む )はWGIP
の施策で、口を封じられた!と思われる。故に、大半の日本国民は『 2月7日の午前6 時33分と6時55分(ハワイ時間)に、米国海軍は近接海域で日本の小型潜水艦を攻撃して撃沈しました』の事は知る由がなかった!となる。
あとがき!~、
『日本人を狂わした(WGIP)工作』の著者の関野通夫氏が著書のあとがきとして記されたものです。
心打つ感銘深い(日本、日本人を思い、GHQが戦後の日本人に植え付けた『遅発生の精神的な癌細胞』の毒性から解放される事を願った)あとがきです。
可能な限り拡散したい!と願い、・・・著書の要旨、及びあとがきを拙ブログに取り上げた次第です。ブログとしては長文過ぎ、訪問客の皆様方に難解だった!と思いますが。
最後まで目を通して頂いて幸甚です。
有難う御座いました!。
参考文献:
■ 関野通夫【日本人を狂わせた洗脳工作】
■ 西尾幹二【GHQ焚書図書開封】
■ ウィキペディア
■ 世界史の窓:リットン報告書
■ 韓国の慰安婦合意反故「背景に東京裁判史観あり」との指摘:
◼︎ 公文書館にみる日本のあゆみ:
◼︎ Economic Warfare with Japan or a New Treaty?
あとがきはその儘で、手を加えないで記述致しまた!〜 、
WGIPは約70年前の話で、今頃なぜ、
そんな古い話をと思われる方もいるかと思います。
しかし、平成26年の7月にジュネーブで目撃した、国連人権委に働きかける反日NGOの人達を見て、WGIPという悪夢が現代に甦りました。
私は左翼であっても構わないという姿勢で生きてきました。嘗てのフランス共産党のように、左翼愛国であれば、保守反日よりずっとましだと思っているからです。
しかし、WGIPの毒が、当時より、今の方が効いているようにすら見える現在では、反日は許せません。
ウィキペディアでも、江藤淳氏はその著作で原資料を公開していない、原資料の存在も疑わしいと、不存在を匂わす様な記述になっています。
そこで、自分なりで確かめてみよう、それには、WGIPの、それも原資料に遡った研究をしてみようという気持ちが急速に膨らんだのです。
プロの文筆家や評論家であれば、一冊の本に纏めよう、と考えたかも知れません。
しかし、日本史の抹殺を計った、GHQの悪辣な占領政策とはいえ、70年前の事件ですから、読みみやすい形で、一刻も早くお届けすべきだと判断しました。
ただし、占領軍の洗脳作戦と、日本人に与えた影響の主要部分は網羅できたつもりです。
たまたま私は、東京裁判の英文速記録の審理要録を作る為の翻訳陣に加わり、清瀬一郎弁護士の冒頭陳述を翻訳する作業をしておりました。その過程で、東京裁判に関わった何人かの言動がWGIPと対をなす事を発見して、本書に取り込みました。
清瀬弁護士の冒頭陳述は、70年前の聡明な法律家が、同時代の国際秩序に基づき、A級戦犯の無罪を論じたものです。今に通じる、というより、戦勝国によって歪められた日本史を、日本人の目で見直す為のまたとない副読本だと思います。
米国との戦争に追い込まれて行った、開戦直前の日本の指導者たちの苦悩を代弁する、世界史を踏まえた弁明は、決して声高ではありません。ですが、それは戦勝国の奢りと野蛮さを何とか分からせたいと言う必死さの裏返しであり、涙なしには読めません。
マッカーサーが占領軍総司令官として日本に乗り込み、日本統治を開始した直後の思想と、米国に戻ってから、米議会で行った証言とが、180度変わっているのも、看過してはならない事実です。
多くのGHQ関係者が、滞日中に見知った日本人の姿勢や、ソ連、支那、北朝鮮という共産主義国家にに隣接するという歴史状況から、日本を日本悪逆という考えを変えた事も見逃せません。
東京裁判の欺瞞性や、日本が戦時国際法違反の非合法なものである事を、私が10歳前後の頃に家庭内教育で口伝えに教えてくれたのは、亡き父です。
この自由社ブックレットを父の霊に捧げます。
末筆ながら、原資料の発見に多大なご援助を頂いた高橋史朗教授や勝岡寛治先生、文章上の助言を頂いた作家の石井竜氏に、大きな感謝を捧げます。
戦後70年目の節日の年に、本書が、WPIGの解毒に少しでも貢献できればと、切に願うものです。
関野通夫:
昭和14年(1939年)鎌倉市生まれ
昭和39年(1947年)東京大学工学部航空科卒業後、本田技研工業(株)入社
工場勤務後、フランス5年半(技術部長)/米国9年(ホンダ関連会社現地法人、執行副社長、社長)駐在/。
その他、東アジア/ブラジル海外生産活動の責任者。
平成13年(2001年)退社、実務翻訳に従事。
GHQ焚書図書開封 第177回:「GHQ日本人洗脳工作の原文発掘」関野通夫氏と語る:
VIDEO
この動画を観た方々から寄せられたコメント!〜 、
✦ 東京裁判で使われた「A級/B級/C級」という翻訳だが、カテゴリーとして区別したのだから、A型/B型/C型という意訳のほうがいいと思う!・・・
✦ 「真相を知ったと思わされた国民からの投書の手紙が殺到、大反響を呼びました」というのは、当時の実相と違うようです。多くの国民は、真相箱が、「これが真相だ」と決めつける内容を諸手をあげて歓迎したわけではありません。真相箱の怪しい演出と工作に気づいており、強い反発を示したのです。多くの日本国民が拒絶反応を示し、NHKに非難・反発の投書が山をなしたのです。
昭和21年1月19日の朝日新聞の「聲(こえ)」にも、内容は紹介されていませんが、批判投書が多くあることが示されています。これらのことは、『続・昭和文化』勁草書房, 1990年, p.105-144にかなり詳しく説明されています。「批判、非難、攻撃の手紙がみるみるうちに私のデスクに山積し、抗議の電話が鳴り止まないという事態に追いつめられることになった」 (p.130 春日由三・昭和20年当時NHK演芸部副部長)のであり、「くるものは非難の投書ばかりだと知ったCIEの係官たちは、そのつどいやな顔をした」のです 。
当時の日本人はWGIPの毒がまだ体内に蓄積されてはいなかった!、加えて戦前の教育の香ばしい残り香が残っており、判断力は現今の日本人とは比較にならぬほど、すぐれていたようです。
✦ WGIPの最高の成果こそ、現行憲法であり、日本最大の負の遺産であることを理解する必要があるのではなかろうか?現に護憲をとなえる人々と反日的な人々は見事に重なりあっている。!・・・
まさに、ずばり!と核心を衝いていますね!。
✦ 明星大学にあったという史料は、日本国民が常に参照し共有可能にしておく必要がありますね。関野さん今回貴重な調査を紹介いだきありがとうございました。いつも思いますが、「東京裁判」という言い方はそろそろやめた方がいいと思います。これは原語でも「軍事法廷 military tribunal」であり、裁判ではありません。ギリシャ・ローマの法文化にその根を持つものではなく、イギリス、オランダ等が東インド会社を設立した時代以後、植民地現地で恣意的に運用された、近代の新しい「軍事法廷」です。
欧米の植民地では、基本法も慣習法もない状態で、即席で裁判形式の「軍事法廷」がつくられ、多くの現地の人々がわけのわからないまま処刑されたり、政治犯として隔離された島で過酷な拷問を受けたりしたのです。ヒューマニズムに真っ向から反するものが、「軍事法廷」だったと言って間違いありません。マッカーサーの父親も、非人道的な軍事法廷の運用者として有名な人物でした。この軍事法廷が応用された1つの形態が、「極東軍事法廷」なのです。 裁判ではないので、裁判に見立てて、「いんちきな裁判だった」と表現しても仕方ありません。もうそろそろ、法的にも制度的にも、裁判とは根底的に別の組織であったことを日本国民全員が認識すべきと考えます。 軍事法廷は、ギリシャ・ローマの法文化にも根ざしていないし、16世紀以来の国際法の伝統にも根づいていない特異な存在なのです。!・・・
素晴らしいコメントですね!、『逝かれ・パヨク』や粗大魔スゴミは反論の余地は無い程に論破されています。
✦ 西尾先生、関野先生素晴らしいお話有難うございました。新聞・テレビ・ラジオでは真相はほとんど報道されません。教育現場もそうです。小生もチャンネル桜で真相を知るようになりました!・・・
✦ 今でもNHKなどは、西洋列強(敵国)がアジアにおいて日本を如何に追い詰めていたかを報道せずにおいて、日本軍がいかに悪かったかしか報道しない(事実の有無は別にして)。 ちう趣旨のご発言が全てを物語っておりますよね。
本当に日本の売国メディアは、欧米の悪意を報道しません。
シナコリアよりも、欧米(特に米)に対して、妙な信仰の様なものがあって、観て居て気持ち悪いです。
親米保守は確信犯で金儲けの為に、欧米発のデマゴーグに従ってるフリする小悪党が多いですが。(特に日本共和党(通称自民)系の、構造改革極右が悪質)左翼の方は妙に欧米人の思想に洗脳されてそうな所があるから、単純に同じ人間として、友達に成りたくないちうか、観て居て気持ち悪いですよ(元々友だち居ませんが(笑))。フェミだの地球市民だの、あれって、欧米発のイルミソ思想ですよね。
でも、それら欧米発の思想に被れた左翼を指さして、自称保守どもが、シナコリアが~在日が~~~、云々と言うんですよね(笑)。
日本人自身もしょうもないくらいに欧米の毒気に毒されてますって。
(ヒッタイトが奴隷管理の為に創り出した天主教が基になっているのでしゃうか?)
あいつら白い奴らは、敵国(特に有色人種)や奴隷に、腰の抜けた考えや思想を押し付けるのが好きみたいですからね。
奴米保守の方々も、一度、酒場でデロンデロンに酔っぱらった欧米人から、日本の男をどう思っているのか?聴いてみて戴いて、かつ徹底的に苛め抜かれれば、
戦後体制からの脱却を、まずはその精神面から、志す様になるのでせうか?
小生も英国人に戦後日本の情けなさを日本語で徹底的に苛め抜かれましたよ。
発端は怒りなんとちゃいまんのでっさろか?!・・・
✦ 内容が非常に面白かったです 現在は世論が追いついていませんがいつの日か評価されるときが来るでしょう!・・・
✦ 関野先生のご本は大ホームランですね。これにて終了って感じです。誠にありがとうございました。ご努力に厚く感謝申しあげます!・・・
✦ 素晴らしい題材ありがとうございます。全国民にこの真相を知らせる方法、目覚めさせる方法があればいいです!・・・
✦ 買った。読んだ。学校の副読本にすべき本です!・・・
✦ お二人とも、戦前の日本を覚えてる最後の世代ですからね。お二人が今の若い世代を覚醒させる事で、失われた「70年」を取り戻す事になる!・・・
✦ 27分あたりの看護師の逸話ですが、本当によくある話です。それを乗り越える事が英霊から託された使命ではないでしょうか。100%の人々の洗脳を解くのは不可能ですが、怒った人に「自分が本当に正しいと思われるなら、一度こういった情報を見てください」と歴史の真実と、その一次情報を列挙したコピー等を渡す、それくらいの事まではしないだめです。さもなくば、私達の様に真相を理解している者もすべて、GHQが残したトラップに道連れにされかねません。!・・・
✦ 昨日この本を購入して夢中で読み終えたところです。
怒りを強く覚えました!・・・
✦ 「しかもこれは決して現大統領の新しき政策にあらず、実にアメリカ伝統の政策であります。すなわちシュワードによって首唱され、マハンによって理論根拠を与えられ、大ルーズヴェルトによって実行に移された米国東亜侵略の必然の進行であります。
この伝統政策あるがゆえに、日本両国の衝突は遂に避くべからざるものであり、
今や来るべき日が遂に来たのであります。」-大川周明『米英東亜侵略史』(昭和16年12月14日)日本が無茶な戦争をしたのは、このことを知っていたからだと思うが
戦後70年を経ってアメリカの国家戦略が何だったかを理解しても洗脳が解けない人たちは何を考えてるのかただ思考していないだけなのかわけがわからん
アメリカより頭が悪すぎる日本人に腹が立つ!・・・
✦ ベルサイユ講和会議で牧野伸顕日本全権が人種差別撤廃を主張して多数決を得たが、白人至上主義者で人種差別主義者であった、米国のウイルソン大統領が全員一致でなければならないと握りつぶした。
GHQ検閲の指針 1946年11月
1.GHQに対する批判、
2.極東国際軍事裁判に対する批判、
3.GHQが憲法草案を書いたことに対する批判及び言及
4.検閲制度への言及
ハーグ条約違反……ハーグ陸戦条約 第43条
占領者は、絶対的な支障のない限り、占領地の現行法律を尊重する!・・・
✦ 私も買いました。これはぜったいに持っているべき本です!・・・
✦ このGHQプロジェクトチームの計画を見ていると、本当にコミンテルンの方法を感じます。ルーズベルトの本質は共産主義者であろう。自分のスタッフが共産主義に染まっている事を知らない訳はない。戦争を仕掛け、日本を潰そうと画策していた事は暴露され分って居ます。絶対的排日法をはじめブロック経済を開始し、散々日本をいじめ抜いた。悪はアメリカであることを戦争体験者の日本人は知っていたので、罪悪感など言っても無駄でしたが、ところがです、これが、 一世代、二世代、三世代と成って行くに連れて、子供・孫たちは実際の体験的知恵が無いから、驚いたことに、洗脳が効果を持ち始めるのです 。特に、教育界を反日勢力が支配したのが良かったと、アメリカは考えているかも知れませんね。恐るべきことです! 洗脳、催眠、マインド・コントロールがまだ解けていないのです。 不思議です?人間は一旦、洗脳されると、透徹した知力を失うらしい。これを自分から解くには、現実を見る、事実を知る、という事しか無いようです。だが、一般人は、そこまでの知力は持たないのが現実です!・・・
✦ 私も買いました。これはぜったいに持っているべき本です!・・・
✦ 私はアメリカに四十年住んでいます。西尾氏と関野氏のおっしゃっている事がよく分かります。アメリカという国がいかに偽善の国かをよく知っています。アメリカの政治家達(=法律家多く含む)は全員ハリウッドの女優男優の演技力を越える演技者です。純粋なまるで幼児ののような日本人は訳もわからず、簡単に騙されています!・・・
✦ しかしGHQの資料が2万5000ページ!とかw 調べるのも大変ですな。自称最高学府の東大にないとは、ほんと税金の無駄遣いですな!・・・
✦ スライドとはプレゼンテーション用に使うフイルムです。
今はコンピューターからプロジェクターで大スクリーンに投射しますが、つい最近まではフイルムを使って投射していました。WGIPの件は知っていましたが、原文を発掘したことは大手柄です。関野通夫さんの本も大好評のようですので大変うれしく思っております!・・・
✦ 右(国粋)の東大出もやはり凄って言うのがとっても日本でうれしい!・・・
✦ 1分ですが「NHK名作選」真相はこうだ "大本営の嘘八百"と言わせています。
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060068_00000