2018年3月9日金曜日

台湾人は漢民族ではない!・・・


台湾人と支那人は同じ民族と見る
        日本人が数多散見できるが!!〜、
❝何度でも言うが、台湾人は漢民族ではない!❞❞・・・
台湾という国を、
日本の皆さんは知っているようで知らない!・・・ 

どうせ支那と同じ民族なのだから仲良くやればいいじゃないか、と言う人が少なくない!・・・

 一般の日本人ばかりでなく、台湾について勉強している学者や研究者でさえ、同じようなことを言う。
台湾人に人口構成は!〜
 2%の原住民!・・・、
 13%の外省人(蒋介石と一緒に台湾にやってきた人間)!・・・
 85%の本省人(戦前に台湾に移住してきた人間)!・・・
この構成比では、98%は元々、漢民族ではないか!・・・
 
これは誤解以外のなにものではないが、殆どの日本人が、台湾人は漢民族であると考えている。 実は、なにより我々、戦後の台湾人が『お前たちはもともと漢民族である支那人なのだ』という教育を受けてきたのだから、日本人がそう思うのも致し方ない面があるが、しかし、これは間違いなのである。

台湾が世界史に登場してきたのはつい最近!〜、
  17世紀になってからであり、それ以前の台湾にはほんの一握りの人間しか存在していなかったのかというと、そうではない!・・・。

台湾が歴史に登場したのは1624年!〜、
オランダがアジアとの貿易をするうえでの中継点として登場した!・・・
 ご承知の通り当時のオランダは、非常に航海技術が優れていて、貿易が盛んだった。
今の会社の原型といわれる東インド会社も彼らによってつくられた。
当時のオランダ人は、西洋の物品を日本や支那に売り、あるいは東洋のものをヨーロッパに売ったりしていた。オランダはその中継点として、台湾と支那のあいだにある島で、大きさは新潟県の佐渡島の5分の1ぐらいの澎湖島 (ほうこしょとう) という島を選んだ。




当時の明朝はその島をめぐってオランダ軍と戦い!〜、
結局は和解したが、明朝の条件としては、澎湖島は返してもらう、その代わりに台湾をあげるからというものだった!・・・
台湾は支那にとって、そのくらい無用のものだった。
そして1624年、オランダ人が台湾を統治することになる。それが台湾人が体験した初めての国家としての権力であった。

 著名な統計学者である沈建徳氏の著書『台湾常識』によれば!〜、
       当時の台湾の人口は五十万人だった!・・・
 今から十年ほど前までは、台湾では原住民のことを『山胞』、つまり山に住んでいる民族と呼んでいた。しかし、確かに1/3は山でも、2/3は平野である台湾で、住みやすい平野に人が住まなくて、山にばかり住んでいるなどは不可解である。
 事実は、当時の台湾人のうち25万人は山に、30万人は平野に住んでいたのである。

因みに、当時の台湾でいちばんの資源は鹿だった。台湾産の鹿の皮がとても綺麗だったので、日本の武士は好んで兜の飾りにしていたという。

■【台湾に来たがらなかった中国人】:
 オランダ人は台湾を統治するために、支那から労働者を輸入する。その数は7000人から8000人で、当時の人口50万人の中の8000人であって、人口の1.6%に過ぎなかった。

鄭成功が『清』に負けて台湾に逃げてきたのが1661年!〜、
    オランダの統治は38年間続いたことになる!・・・
現在、台湾人が支那人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功が多勢の支那人がを連れて海を渡って台湾きた史実に起因しているが、1661年の台湾人口は62万人あり、支那渡来してきた鄭成功一族と、その軍隊はその中のたった3万人なのである。

鄭成功一族が台湾を統治したのは22年間、!〜、
 当時の台湾の人口は七十二万人になっていた!・・・
鄭成功一族は『清朝』に破れ台湾支配が終わり、清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人、これは殆どの支那人が台湾にいきたがらなかったのが理由であった。

なぜ支那人が台湾に行きたがらないかったのか?!〜、
 理由は当時の台湾はまさに瘴癘(しょうれい)の地だった!・・・
瘴癘とは風土病のことだが、マラリアをはじめ猩紅熱、腸チフス、百日咳など、ありとあらゆる伝染病が台湾に蔓延しており、…『台湾に10人行けば7人死んで1人逃げ帰る。残るのはせいぜい二人』という支那の諺が残っている。

 実際、清朝は200年の長期にわたり台湾を統治した!〜、
       その間、統治者は3年交替だった!・・・
3年交替の統治者で生きて支那に帰れたのはほんの数人、十人を超えてはいなかった。
勿論、統治者としてやって来るわけであるから、いちばん良い食事、いちばん良い環境、いちばん良い住まい、つまりいちばん良い衛生状況を保てたはずだったが、その彼らがほとんど台湾で死んでしまうほど台湾の風土病は怖かった。

1895年、日本が台湾を領土としたした時の人口は!〜、
250万人だったが、清朝出身者の殆どが中支那大陸に引き揚げていた!・・・
故に、このように歴史を辿ってみれば、台湾人が漢民族であるという認識が間違っている事が明白になるでしょう。

■【税金のために漢民族になろうとした原住民】:
 清は、いろいろな階級に分けて台湾人を統治した!〜、
 漢人(漢民族しか苗字を持っておらず)!・・・
 原住民のことは、野蛮人を指す『蕃』を使って『生蕃』、『熟蕃』!・・・
 この戸籍制度は、日本の統治時代まで使われた。

『熟蕃』(じゅくばん):
 教化され、帰順した原住の人々、漢民族と一緒に住んでいる、
                   人を殺さない野蛮人を指す。

『生蕃』(せいばん):

 中央の教化に従わない高山族のうち、漢民族に同化していなかったものを指す。


山に住んでいる台湾人は首を狩る原住民は『出草』と言った!〜、
自分が一人前の男であることの証明として人の首を狩り、狩った首はお飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。

 生蕃には重税が課せられ、熟蕃はやや軽い。漢人はいちばん軽い。そうすると、熟蕃は競って漢人になろうとする。そこで、当時の清朝は『では、あなたの名前は林にしましょう。あなたは王にしましょう』と苗字を与えた。
 苗字のない原住民は競って苗字のある漢民族になろうとしたのである。生蕃もできるだけ熟蕃になろうとした。故に、台湾人は漢民族であるというのは統治者の政策によってつくられた虚像でしかない。要は名前を漢人風にしただけのことであり、表面だけを見て漢人と言っていたのである。

■【血液学からも証明】:
 台湾の人口は、1624の50万人から1945にはざっと600万人になった!〜、
環境などを考慮すると、その成長率は非常に合理的な数字である!・・・
清朝統治の200年間には、台湾に渡るなという禁止令があった!・・・
 理由は、台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていたのと、人が増える事は好ましくなかったからで、できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢だった。

日本が統治した当時の人口は250万人!〜
日本統治の50年間に支那大陸から、
         台湾に移住してきた支那人はほとんどいなかった!・・・
正常な人口の成長で、50年間で600万人になった!・・・

 1945年、台湾から引き揚げた日本人が40万人いたので、総数としては640万人となり、。その中にもし支那人がいたとしても、ごく僅かなのだ。
 血液学的調査にもそうだし、台湾の馬偕記念病院の血液学の教授である林媽利先生は人間のリンパ球の遺伝子を調べて、すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明している。

以上は!〜、
『台湾の』より。寄稿文:引用/編集

『台湾の声』編集長 林 建良

『出草』と呼ばれていた台湾の原住民は!〜、
お飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。私のなかでときどき血が騒ぐのは、その遺伝子のせいかもしれない。自分の先祖の血を明かしている。



❝❝ 台湾人は漢民族ではない!❞❞
『台湾の声』編集長の寄稿文に触れるまでは!〜、
かく言うブログ管理人も、根拠は全くなかったものの、漠然として、台湾人の殆どは支那人!と、恥ずかしながら思っていました。
『台湾の声』編集長 林 建良の寄稿文を一挙に読破後は、目からウロコで考えを改めました。

どうでしたか、記事の内容に合点がいきましたか?。
拙ブログの来訪者の方々は見識高いので、台湾人は支那人では無いことを認識していた方も居るので、『釈迦に説法』となったかも知れませんね!。






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