小嶋アナウンサーの和服にも「桜」が満開です。(大紀元)
東京・墨田区に空高く聳え立つ
東京スカイツリーが完成したのは!〜、
2012年2月29日。電波塔および観光施設として
2012年2月29日。電波塔および観光施設として
開業したのは同年5月22日だった!・・・
川の流れは時代によって変わるのが常である!〜、
いま東京スカイツリーが建っているその地は、
実は『武蔵』ではなかった!・・・
旧国名でいうと隅田川の西岸が武蔵、スカイツリーのある東岸は下総(しもうさ)となる。 その二国をつなぐ橋を両国橋と呼び、西岸の浅草側からみた対岸を向島(むこうじま)と呼ので、この川筋が、人々の意識上の境界線になっていた事は確かでしょう。
『すみだ河』という川の名称は!〜、
平安時代の『伊勢物語』に見られる!・・・
『伊勢物語』はおよそ千年前の作品で、その成立も作者も詳しくは伝わらない歌物語だが、実在の貴族である在原業平(ありわらのなりひら)とみられる主人公が多く登場する。 確証は無いが、・・・ 業平その人が作者であると考えられている。
『伊勢物語』はおよそ千年前の作品で、その成立も作者も詳しくは伝わらない歌物語だが、実在の貴族である在原業平(ありわらのなりひら)とみられる主人公が多く登場する。 確証は無いが、・・・ 業平その人が作者であると考えられている。
その『伊勢物語』のなかでも有名な「東下り」の一場面!〜。
なほ、ゆきゆきて、武蔵のくにと下総(しもつふさ)のくにとの中に、いと大(おほ)きなる河(かは)あり。それをすみだ河といふ。(中略)さる折しも、白き鳥の、嘴(はし)と足と赤き、鴫(しぎ)のおほきさなる、水の上に遊びつつ魚(いお)を食ふ!・・・
なほ、ゆきゆきて、武蔵のくにと下総(しもつふさ)のくにとの中に、いと大(おほ)きなる河(かは)あり。それをすみだ河といふ。(中略)さる折しも、白き鳥の、嘴(はし)と足と赤き、鴫(しぎ)のおほきさなる、水の上に遊びつつ魚(いお)を食ふ!・・・
東下りの一行は、京都を離れて!〜、
はるばる東国の隅田川まで来た!・・・
そこで川面を飛ぶ白い水鳥をみる。渡し船の船頭に鳥の名を聞くと、『あれは都鳥(みやこどり)という鳥でごぜえますよ』、・・・
それを聞いて、旅の一行の望郷の念(京のみやこ)が溢れるともに爆発!、…それが歌となった!『名にし負はば、いざ言問はん都鳥。我が思ふ人は、ありやなしやと』、・・・
歌意は『おお、おまえが都鳥という名をもっている鳥ならば、いざ問いたずねよう。京の都に残してきた私の思い人は、無事に生きているか。死んでしまったか』。
『古今和歌集』に在原業平の作として載せられているこの一首は、おそらく一行の心情を吐露して余りあるものだったのは容易に想像できる。
東下りの男たちは、誰もが都に残してきた妻や恋人を思い出し!〜、
『舟こぞりて泣きにけり』と船上が号泣状態になった!・・・
今日の隅田川にかかる橋の多くは、いずれも大正末年から昭和初期にかけてつくられた見事な姿をもつ鉄橋であり、… そのなかの一つ、賑やかな浅草からほど近い場所に、『伊勢物語』の文章に由来する『言問橋(ことといばし)』が在る。
言問橋。現在の鉄橋は昭和3年(1928)に竣工。(大紀元)
千年前の隅田川の風景は簡単には現代人が想像するには容易でないものがある。
120年ほど前の明治末年の隅田川であれば、私たち令和の日本人にも、眩しい程の
春の陽光とともに、鮮やかに思い描くことができる。
瀧廉太郎(1879~1903)の作曲による歌曲集『四季』が発表されたのは、明治33年(1900)。そのなかの『花』という歌は、おそらく『故郷(ふるさと)』や『荒城の月』と並ぶ、日本人の誰もが子供の頃から親しんだ国民歌と言ってもよいでしょう。
❝❝ 春のうららの隅田川、のぼりくだりの船人が、
櫂のしずくも花と散る、ながめを何にたとうべき ❞❞、・・・
この時代、荷船の船頭が扱う船は!〜、
長い艪(ろ)をゆらして進む和船が殆どだった!・・・
この歌に見られるような櫂(かい)つまりオールを使い、漕ぎ手の背中の方向へ進む船と言えば、何でしょうか?。
これは和船ではなく、競技用のボートと考えらる。
漕艇(そうてい)は明治期に西洋からきた新しいスポーツで、大学や師範学校のボート部員を中心に、当時の隅田川では盛んに行われていた。
そうすると、この歌に描かれた光景は、20歳の作曲者が生んだ躍動的な旋律とともに、明るい春の川面に逞しい若者の青春が躍動する生命力あふれた映像となる。漕艇(そうてい)は明治期に西洋からきた新しいスポーツで、大学や師範学校のボート部員を中心に、当時の隅田川では盛んに行われていた。
現代の隅田川を行き交う船。(大紀元)
『錦おりなす長堤に、暮るればのぼるおぼろ月』!〜、
『錦おりなす長堤に、暮るればのぼるおぼろ月』!〜、
そんな隅田川の堤防に、コロナ禍つづく今年も見事な桜が咲いた!・・・
取材で訪れたのは3月30日で、川風が心地よい、のどかな春の日だった。
今年の隅田川の桜は!〜、
今年の隅田川の桜は!〜、
まさに今日が満開の花盛り!・・・
平日にも拘らず、見頃の桜を求めて訪れてきた多くの人々が、感染防止に留意しながら、ゆるやかに歩を進めていいた。
隅田公園は、隅田川をはさむ両岸に設けられた公園で!〜、
都内でも桜の名所の一つに数えられる!・・・
川面には、千年前と同じく都鳥(ユリカモメ)が飛んでいる。
江戸期の享保年間に、第8代将軍徳川吉宗が命じて隅田川沿いに桜を植えさせた。俗説の一つであるが、吉宗は、多くの花見客に踏み固めさせることで堤防を強固にしたとの通説がある。
もっとも、当時の桜はヤマザクラなどの古種が中心で、幕末から明治にかけて品種改良されたソメイヨシノ(染井吉野)ではなかった。今日、人々が目にする東京下町の桜の多くは、戦時中の大空襲で焼土と化したこの土地に、戦後復興の証として新たに植えられたもの。
参考文献:
■【「すみだ川 今昔」 東京・隅田公園の桜】:
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