2023年3月12日日曜日

米国は東京大空襲を皮切りに日本を物理的、精神的に徹底的破壊した!・・・

死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)
 3月10日の米軍の夜間空襲(下町空襲)は!〜、
  人類史上、戦争史上で特筆できる!・・・
それは正に戦争犯罪!と断言できるでしょう!。

1942年から1945年まで続いた
    米空軍の残虐、無慈悲!〜、
 日本の各都市への大規模な空襲、
     広島/長崎への原爆投下!・・・
これらを戦後、必死になって隠蔽しようと!画策した人物は、それらの爆撃を発案した人物だった!。


日本では1945年3月10日、東京大空襲が起きた!〜、
  東京はこの日、焼夷弾による絨毯爆撃を受け、
      大規模な火災が発生 !・・・
様々な推計によると、この空襲で8万人から10万人が死亡した。
日本全土で63都市が大規模な爆撃を受けた。


             カーチス・ルメイ:
1906年11月15日ー1990年10月1日(没年83歳)
アメリカ空軍大将、
第二次世界大戦の太平洋戦争で戦略爆撃を実施、
1961年から1965年までアメリカ空軍の参謀長を務めた。


1944年末から対日戦略における航空作戦を指揮していた米空軍のカーチス・ルメイ将軍は、大規模な工業工場が集中するドイツの都市に対する空襲戦術は、日本軍には効果がないとの結論を出した。

           1945年3月10日の東京大空襲

フガス爆弾は家屋を破壊したものの!〜、
     近隣の家屋には被害が及ばなかった!・・・
 そのため、焼夷弾を優先することを決定した。
空襲は日本の防空部隊が爆撃機を追跡できないように夜間に行うことも決定された。1945 年 3 月 9 日未明から10 日にかけて、米軍の B-29 重爆撃機325 機がマリアナ諸島の空軍基地から離陸し、東京に向かった。その3 時間以内に 1665 トンにもなる焼夷弾が東京に投下された。

              東京大空襲

この結果、東京の街には激しい火の手が上がり、すべての命が奪われた。それまで東京では10回の空襲で約1300人の市民を失ったが、3月9日未明から10日にかけて、少なくとも8万人が犠牲となった。正確な死者数を確定することはできていない。またこの大空襲で4万人が負傷した。東京の人口の約半数が家を失った。
 ルメイ自身は、戦争をできるだけ早く終わらせる必要性から、…
大規模な爆撃を正当化した。


東京大空襲は!〜、
第二次大戦史の中で最も破壊的な空襲であった!・・・

◼︎ 米空軍は1665トンの爆弾とナパーム弾を投下!・・・
◼︎ 日本の206都市のうち98都市を爆撃 !・・・
◼︎ これは脅しと復讐の行為だった!・・・
◼︎  ナパーム弾により火災旋風が発生!・・・
◼︎  死者は10万人超、その殆どが民間人!・・・

▶︎ 戦時中の爆撃を戦争犯罪に分類されるべきか
   どうか?さまざまな意見が存在する:

東京大空襲は民間人に対する戦争犯罪、あるいは人道に対する犯罪として正当に分類されるべき。なぜなら、民間人の命が奪われているからだ。そして、この爆撃を計画実行した米軍は、このことをよく理解していた。
この点で、1945年の東京大空襲は、ドイツ※『ドレスデン爆撃』
比較することができる。

※『ドレスデン爆撃』:
1945年2月13日ー15日、連合軍のドイツ東部・ドレスデンへの
無差別爆撃。
4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。
この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、市の調査結果によれば死者数は25,000人だとされる。

ドレスデンの街の3900トンもの爆弾が投下され、85%が破壊されたにも拘らず、死者の数は少ない。
この教訓から、東京大空襲は初めから民間人の殺戮を目的として、焼夷爆弾を主体にした爆撃だった。人類史上に特筆できる大虐殺と言える、これを戦争犯罪!と言えなければ、戦争犯罪などは存在しないでしょう。

 日本の崩壊はもはや避けられなかった。
その頃までに、すでにヤルタ協定が締結されており、ソ連はヨーロッパ戦線終結から2〜3ヵ月後に日本と戦争に突入することを予定していた。
 米軍司令部は、東京を上空から攻撃する事で、日本を降伏させることを目論んでいた。東京を破壊することで、日本の政治指導者に圧迫感を与えることを期待していたが、うまくはいかなかった。しかし、1945年までの日本の軍事的敗北はすでに決まっていたことであり、これに対する認識はすでに日本には十分あったのである。

東京大空襲や原爆投下の実行責任者として!〜、
これに深く関与したカーチス・ルメイ将軍!・・・
 原爆投下の際、日本側に警戒態勢をとらせないため、B29の高々度の単機使用というのは彼の発案だった。

ルメイ将軍は、原爆投下から19年目の1964年、航空自衛隊育成の『功労』により、日本国天皇から勲一等旭日大綬章を受け、1990年10月、83歳で長寿を全うした。

引退後、ロスアンジェルス郊外!〜、
 海に面したニューポートビーチの
     静かな邸宅にすんでいた!・・・
日本のメデイアから取材を申し込まれ!~、
インタビューは断るが、勲章ならば撮ってもよい!と
    彼が指さした棚の中に、
   勲一等旭日大綬章があった!・・・


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